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文芸すばる(インタビュー):わたしの光となった表現|作家として影響を受けた作品

臨時の作業机(2011年3月震災直後・小学館にて)

文芸すばる(2016年8月号)

拙作『羣青』に触れた話が頻出します。結末を先に知るのが嫌で、今後読んでくださる可能性のある方は、読後にご覧いただくことをおすすめいたします。

「羣青」試し読み(小学館)


 

わたしの光となった表現

インタビュアー:外山雄太 氏(Letibee代表取締役

あなたはどのような表現に影響を受け、また、支えられてきましたか?
セクシュアリティー/世代/職業の異なる七名に、人生の大切な局面をともにした三つの作品と、それらとの出会いについてうかがった。

文芸すばる(2016年8月号)より|わたしの光となった表現


〝L〟のことしか分からないから
※以下、太字部分が中村の発言。

(略)
二人の女性の壮絶な逃避行を描いた『羣青』から、レズビアンのシングルマザーのコミックエッセイ『お母さん二人いてもいいかな!?』まで、幅広い作品を発表する中村さんが自身のセクシュアリティーを認識したのは、十九歳のころだった。
「幼いころから怪獣や爆発物が好きで、人形や花のような、女の子らしいものに興味がありませんでした。自分は男なのかな、とも思いました。のちに、単なる趣味の差だったことが分かるのですが(笑)。

文芸すばる(集英社)のLGBT特集掲載号で「あなたはどのような表現に影響を受け、また、支えられてきましたか?」というテーマのインタビューを受けました。『羣青』制作中に聴いていた曲や、影響を受けた創作物についてお話ししています。
 

堀口大學「詩」(『冬心抄』より)

それまで、本も漫画も読まない、映画もテレビもみない人間だったので、漫画家になると決めてから慌てていろいろと摂取しはじめました。創作をするための基礎筋力をつけるために必要だと思ったからです。とはいえ、何から読めばいいのか分からない。分からないから現代国語の文脈をたどって、堀口大学の「詩」という詩を発見しました。ここに描かれていることは、私の知る限り、漫画を構築するセオリーと酷似しているぞ、と思ったのです。

(略)
漫画ってなんだろう? 時々わからなくなることがあります。そんなときに、この詩をいまも思い出します。コマとコマとが支えになって、台詞と台詞がこだまし合って……。私とは違う人生を描くことも多いからこそ、作業はとても難儀だけれど、そのぶんやりがいがある。一コマ一コマ、丁寧に組み立てていき、それがやがて『揺るがぬ一軒の家』のようになる。そういうものを作りたいのだと、初心を忘れないようにしています。物語に直接的な影響はないけれど、漫画のつくりかた、漫画との向き合い方には大きく影響した詩です」

手元の本を見たら私が持っているのは新装5刷で、成人する頃に新宿区内の書店で買ったものだったからそんなに古い本だと思っていなかったんですが、なんと昭和62年12月25日付の本でした。よく見たらバーコードもないし、よくこんな古い本売っていたなぁ…。古本屋さんじゃなくて、結構大きめの新書店なんですけど、本気でびっくりしました。ですから、今まったく同じ本を綺麗な状態で入手するのは難しいようですが、私が挙げた「詩」は『冬心抄』に収録された一篇です。
 

梶井基次郎『冬の蝿』

期待の新人としてデビューするも、なかなか連載が決まらなかった。
「もうネタ切れか……と、自分にがっかりしました。本も漫画もろくに読んで来なかったんだから、当たり前です(笑)。苦し紛れに、文学好きの友人に『小説が読みたい』と相談したところ、まずは三島由紀夫の『憂国』をおすすめされ、これを大変おもしろく読みました。二冊目に紹介された本が、梶井基次郎の『冬の蠅』でした。
 蠅一匹でここまで引っ張るか……! その執念と筆力に衝撃を受けました。どんな題材でも物は書けると、つまりこの世にネタ切れなどないということを梶井基次郎は証明しているのです。なにかを執拗に観察して描けば、それは作品になりうる。なにも浮かんでこないときは、とことん〝なにもないこと〟を書く! そう考えるようになってから、平凡な日常の何もかもが一瞬残らずネタにしか見えなくなりました。

(略)
いざとなったら、蠅を描くから(笑)。わたしの〝体験〟がそこに在るのに、なぜ困ることがあろうか。そう思えたときに不安から解き放たれた気がします」

それまで小説や物語を積極的に摂取してこなかったのですが(図鑑や、警察犬アルフがどうなったとか、麻薬探知犬シェリーがどうなったとか、車椅子の犬花子がどう暮らしたとか、オオカミ王ロボがどうしたとか、椋鳩十とツキノワグマとか、そういうのが好きだったため、あまり他のたぐいの本には触れてこなかったのです…)多分こういうのは一般教養の範囲なのだと思いますが、遅ればせながら「世の中にこんなに繊細かつ硬質な世界観があったのか」と感激しました。もちろんこれまで通り、犬が活躍した話とか、犬が幸せになったとか、クマが出たとかオオカミが出たとか、何かの図鑑(どじょうとかめだかとか)も大好きですが、たまには物語も読んでみようと強く思わされた読書体験でした。
 

『羣青』の制作のそばにあった作品

 

AKB48『ヘビーローテーション』

(略)
初連載の『羣青』は試練の連続だった。女性しか出てこず、登場人物の名前がない二人称で進められる漫画、設定は難しく、テーマは暗い。この連載が佳境を迎えたときに聴いていたのが、AKB48の「ヘビーローテーション」だった。
「AKBというアイドルグループの存在を知らなかったんです。あるときコンビニでこの曲が流れて、なんてすばらしい世界観なんだろう、と思いました。ただただ好きなひとがいて、MAXハイテンションで、それだけでよくて。
 家に帰って誰の歌なのか調べようとしたんですけど、サビの英文があまりにも平易で、I want you I need youで検索しても、その時は結局わからなくて。1年以上たって、ようやく『AKB48というグループの歌だ』ということを知りました。
 すばらしいと思ったのは、『きみに会えて自分はついているね、愛してるよ』ということだけを真っ直ぐ列挙した姿勢です。あなたが好き!会えてよかったよ! という気持ちだけをひたすら描くだけでコンテンツは作れると確信しました。

『羣青』の二人の罪は重いし、償うべきことはあるし、情状酌量の余地があったとしても起こしたことすべて償いきれるものではありません。愛に溢れた瞬間はあったけど、ひとつも正々堂々とした愛ではありませんでしたし、情が愛に化けてしまった成れの果てもたくさんありました。向き合うことを避けたまま育んでしまった愛もありました。社会的に二人が罪と人生を切り離して生きていくことはもう絶対にできませんし、物語の中の世界では社会が彼女たちを裁き続けていると思います。そうした罪は罪として、絶対にあります。ありますが、身勝手でみっともない二人の間に残すものとして、最後は、I love you、I need you、I want you、「会えてよかった」があればいいだろう、この人たちはそれで生きていくはずだ、と思いながら聴いていました。最終回、最後の1曲です。

『羣青』を作りながら聴いていた曲

この文脈に一番寄り添う形で選択的に聴いていたのは『ヘビーローテーション』でしたが、実際の制作期間は長かったので様々な曲を聴きました。
過去編あたり、高校時代のあたりを描く時によく聴きました。
実際のこの歌の詞はすれ違いのような恋の行方を本当に理解しているのだと思いますが、たとえば高校時代にこの言葉通りのものを読んだら、分かったような、諦めたような気持ちになるのではないかな、本当は手に入らなさを分かっていないし、本当は諦め方なんて知らないくせに、なんて思いながら聴いていました。それでも一瞬、一瞬、胸を裂くような「綺麗だね君は」という衝撃は、恋の結末に対する理解の浅さ、現実に対する認識の甘さを軽く越境して、生々しく若い「あーし」にもあったのだろうな、と。

下巻の収録回を描いていた頃によく聴きました。
二人の間に残したい動的な感情の主題歌が『ヘビーローテーション』だとしたら、二人の間にあったはずの静的な感情の主題歌はこういうものじゃないかなと思っています。

風にならないか
中島みゆき

これも、下巻の冒頭あたりからよく聴いていました。
感覚的には私なんかにも理解できるような気がするものの、分かった気がするとすぐ説明がつかなくなって、二人の顔をたくさんの瞬間描きながら、あなたたちは、どういう愛の残し方をするんだい、と思いながら、「選ぶつもりで選ばされる」と歌われる「激流のような」人生の中で、どう能動的な愛の刻み方をするんだい、と思いながら、「ここで歌われているのは、どういう情景のことだろう?」と考えたまま聴き続けていました。
元彼女さんに関することを描くときはだいたい聴いていました。
この歌詞みたいに整った感情、理路整然と形成された逡巡ではない想定で元彼女のことは描いていますが、骨子にはこういうのがあって、本編では描けませんでしたが(二人の間には、愛情も信頼もあったのに、「あの子」を主人公のもとに走らせてしまうちょっとした心の隙間もあって、それは日常のささいなすれ違い、ささいな不誠実、ささいな悪運の積み重ねで、悲劇の最初にはこういう日常の恋や愛の断末魔があったはずです。運の悪いことが何も起きなければつなぎとめていられたはずなのに、最悪の巡り合わせが二人の間にほんの少しあった隙間から入ってきた末の物語、として描いた部分もあります。

兄ちゃん夫妻のこと描く時だいたい。
現状「アホや」っていうところしか残っていないと思いますが、もっと若くて二人がちゃんと夫婦になって対話を重ねる前はこんな感じのイメージでした。
鰻谷
八代亜紀

おねえさん(義姉)が出てくるシーンはだいたい。
羣青の中で一番、愛した相手と地球を秤にかけそうな人だな(かけるかどうかはともかく)、と思って聴いていました。主人公たちはもっとこまごましたものを秤にかけてしまうタイプだよな、と思って
てんびん秤
中島みゆき

全編通して聴いていました。
「悪にならずに耐える愛のほうが尊いに決まってる」と思っているほうですが、何か運の悪い条件が揃ってしまった(悪になれば手っ取り早く事態が動くような)とき善のまま愛していくじれったさに耐え切れる技量は多分人それぞれ違って、根気と忍耐の要る善の足場からうっかり落ちてしまった時、次の砦は、悪になってでも愛すというところにあるのかなと考えたりしていました。わからないけど。
終盤、最終回、よく聴いていました。
笑った顔が見たい気持ちとか、大好きな子を抱きしめて現実から逃げてしまいたいけど、ここで甘さを見せたら何の決断もできなくなってしまうから、という時とか。若かった二人の笑顔ともどかしさ、歳を重ねて何も引き返せない感傷。思い出だけが綺麗だったことを振り返りながら「さよなら」を絞り出すような時の、気丈で明るくて泣きそうで恋しいイメージで聴いていました。
最終回の中盤に聴いていました。
もしかしたら「私」のほうが、「あなた」への気持ちが重たかったかもね、むしろ「私」のほうに愛しさがあったかもね、という気分だろうなと思われる主人公を描いている時に。
全編通して聴いていました。
ヒリヒリしつつ、この歌がもう存在するんだから、わざわざ「あなたの人生をただ褒めたい」ような作品はこの世にもう要らないかな?という迷いも感じつつ、それでも誰しも(と言いたくなるほどきっと多くの人が。私も、私がただいつも褒めている大切な人たちも)存在の何気無さごと褒められる人生が欲しいに違い無い気がしていて、普遍的なことだから、いびつだけど私は私の紡げる物語として描こう、と思いつつ聴いていました。ずっと好きな曲です。
瞬きもせず
中島みゆき

作中に登場する『月下の一群』

作中終盤で、主人公が暇つぶしに読んでいただけの詩集を「あの子が好きな本だ!」と勘違いしてしまうシーンがありますが、登場するのが先述の堀口大學の詩集『月下の一群』です。高校生だったあの子は、まだ「ふうん、よくわからないけど」くらいに読んでいて、大人になって時々書いてあった詩の断片を思い出すんだけど、やっぱり読解が難しくて、直接的にどの詩にも主人公が寄り添えることはないんだけど、「あんたこんな分厚い本、勘違いだけで読んだのね」っていう可愛い事実がなんとなくこの本への思い入れにはなっている。という舞台小道具としての設定です。著者個人としてはもちろん色々、好きな言葉が収められていますが。

〝L〟のことしか分からないから

 LGBT漫画家、などと括られることもありますが、わたしは正直〝L〟のことしか分かりません。それも、わたしの個人的な体験に紐づいた〝L〟でしかない。〝GBT〟は知りません。LGBTを代表する作家ではないから、この冠はいらないなあと思います。

(略)

私は一人で、LGBTになりえません。Lの代表にもなりません。Lの断片、Lを構成する無数の点のほんのひとカケラです。GのことBのことTのことを自分のことのように語ることどころか、Lのことすら「Lとは」というスケールで伝えきることはできません。
戦略的に「LGBTの当事者(の代表みたいに扱われている人のうちの一人)です」という空気の中に出方をせざるをえないことは今後も当分あるはずですが、「L(GBT)だから描いた」というものではなく、女性であり、人間であり、同性愛者でもあり、いろんな者である私が、「私として描いたもの」というスケールの物語を世に出していきたいです。「私の分野は本来、エンターテイメントだ」ということを忘れ…すぎ…ずに描けたらと思います。