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メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE:人と人が「一緒に生きる」ということ(+イベントレポートあり)

イベントレポートと感想日記が公開されています。

目次
イベント情報(終了)
公式イベントレポートのご案内
イベントを終えての私の日記

Mercedes-Benz Connection
NEXT DOOR
POLA TALKER’S TABLE
共感の輪が広がる新しい井戸端会議のカタチ

 

 

POLAが手がける、新感覚井戸端会議。

いつもどおりの日常感あふれる六本木の一角にできた、緑と癒しの音楽に包まれた憩いの”井戸端”にお呼ばれしました。
私と井戸端会議しませんか?
パートナーや子供との共存、独りの人間としての人生の選択、ひとりで生きやすい社会、「どうやって生きていこう?」「どうやって楽をしよう?」「どうやって息を抜こう?」ついつい、人生や日常を頑張ってしまうみなさんへ。どうしたって、頑張るしかないみなさんへ。
肩の荷を少しずつ降ろしながら同じ空間で、同じ目線で、あれこれ考えてみましょう。
聞き手はクラシック音楽ライターの第一人者、室田尚子さんが務めてくださいます。

 

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE:人と人が「一緒に生きる」ということ(2017年4月2日・東京六本木)のご案内

 

チケットは無料。詳細とお申し込みはこちらから。
http://www.pola.co.jp/special/pola_talkerstable/talkevent/0402nakamura.html<i class=”fas fa-external-link-alt”></i>



ありがとう!

このイベントは終了しました。ご来場ありがとうございました!以下は公式のレポートページのご案内と、私の日記です。日記部分はイベントの文字起こしの部分もありますが、イベントを終えた私の感想も含まれるので、トーク内容の完全な再現ではありません!(公式レポートは実際のイベントの様子のみを元に担当ライターさんによって書かれています。)

 

皆さんからは「父親との確執に長年悩んでいる。会話もなく解決に持ち込めない」「男尊女卑の環境で仕事をせざるをえないが、心乱れる。どう対処したらいいか」「新社会人だが、ジェンダーを揶揄するような無神経な言葉が行き交う社会で働くことに恐怖を感じる」など、次々に仕事や家庭での他者との関わり方への不安や問題が提起されました。1つひとつの問題に丁寧に向き合い、繊細かつ明確な言葉で語る中村さん。そこから見えた共通の大きな障害は、世間や社会に蔓延する固定観念でした。例えば“子どもを持てばわかるわよ”という親世代の決めつけや、男尊女卑思想による教育の弊害、単身者が幸せになれない仕組みの日本の婚姻制度からくる歪んだヒエラルキー、無意識下で飛び出す差別的で無遠慮な言葉の数々。それらには徹底して抗議したいと言います。「変な人だと思われても構わない。どんどんおかしいことにツッコミを入れていきます。そうして1人ひとりの固定された考えを壊せば、市民レベルでは意識が変わっていくんじゃないかと思う」。すると男性参加者からもこんな発言が。「日本男性は女性蔑視の考えの人がほとんどなので心苦しい。ただ若い男性ならなんとかなる。時代が変わるまで、女性は自分の仕事を磨いて居場所と仲間を確保してほしい。そうしてひとつの会社でも変われば、何十年後かにはなんとかなるのかも」。心強い言葉に、自然と拍手が涌き上がり、全員がほんのりとした希望に包まれました。「女性にはいろんな不利益、憤りもあると思う。大変ですけれど、頑張れば次の世代はちょっと楽になれるかな? 未来を信じて、一緒に生きていきましょう!(中村)」。
出典:POLA トーカーズテーブル アーカイブ「POLA TALKER’S TABLE REPORT」

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLEレポートページのご案内

公式ページに、当日のレポートがアップされていました。
POLA TALKER’S TABLE イベントレポート<i class=”fas fa-external-link-alt”></i>

全日程分公開されているので、他の方の回に参加しそびれてしまった方も是非ご覧ください。

 

このイベントは、「登壇」ではなく「井戸端会議への参加」で、来場者の皆さんとは同じ高さで、同じフロアに集まっておしゃべりをしました。一方的にプログラムが決まっているわけではなく、その場で質問に答えたり、その場で相談に乗ったり、ということも。

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE・イベントの様子(聞き手の室田尚子氏と中村)

「仕事で男尊女卑にならなければならない」

「仕事で男尊女卑的な表現をしなければならない(そんな仕事をしている自分が苦しい)」という相談が来場者さんから出てきました。「分かるなぁ」って思いながら、後ろめたさと、なんとかしなきゃ、という気持ちの間で揺れながら聞いていました。

答えらしい答えはできませんでした。胸を張って「こうしたほうがいい」なんてことは言えませんでした。なぜなら私も、社会構造に巻き取られている瞬間が、とても多いからです。

私はいわゆる「青年誌」「男性誌」と呼ばれている漫画雑誌の出身作家で、やっぱりセクハラで一時代を築いていたような文化圏に長く浸っていて(私が所属している雑誌では、男性主人公が活躍したご褒美的に作者が女体を用意しているとかザラにあるし)、漫画雑誌以外でも、やっぱり女性が物のように扱われる性的搾取は横行していて、でもそこで生きていくために、女性を性的対象とし、性的搾取を歓ぶ読者層にとって面白い表現を優先して、生き延びてきた過去があります。

男性向けの情報誌で「今聞くべき男の一曲」とか「男の映画」とか「男が読める恋愛マンガ」みたいな記事を担当したこともありました。どれもこれも私のチームがピックアップしていました。全然男の一曲や男の映画ではありません。その時私が所属していた記事班は全員女でした。「男の逸品」という特集で誌面を大きく飾ったのは、私の彼女が自分の趣味で乗っている車でした。それでも一度も疑問を口にすることなく、私やチームの女性たちは、黙ってその業務に就きました。せっかくありつけた仕事です。きっと昔は「男の仕事」だった、特集記事を組める花形の仕事です。誰もそれを手放したくありませんでした。

「すごい面食い」を売りにして、ルッキズムに加担することもあります。これは現在進行形です。もちろん私の言う「美人が好き」は、「私の好みの人を美人と呼んでいるだけ」ではありますが、その一方で私も「子供が小顔じゃなかったらどうしよう」と友人が言えば、勝手に傷つきます。ずっと良くしてくれた方に「何パンマンですか?」と構われて、以来ほとんど接触していません。彼らにも何か言い分があったでしょう。でも、キーワードがあれば傷つくには充分で、いくら説明を聞いたところで(論旨に納得はできても)心を動かさないことは無理です。
一応注釈すると、私は「外見は生得的なので、外見の美醜で人を判断するのは差別」という論者があたかも人格が完全後天的かであるかのように主張することに強い反発を覚えます。先天性が遺伝的要素のみを指すのであればそれは尤もな話ですが、「生育環境に由来すること」という乳幼児〜多くの未成年が人生において選択不可能だった部分も含めれば『人格の土台』『価値観の土台』もまた、本人の努力と関係ない部分で気付いた頃には形成されています。継続的な精神的抑圧や暴力などによって病的な性質を背負ってしまった人格の持ち主は、本人の努力ではどうしようもない外見の美醜の問題を解決するために美容整形外科に行くのと同じように、心療内科や精神科など医療に縋って、心の美しさ(と世間が言って憚らないような人格や生きやすさみたいなもの)を手に入れるために苦しみ、もがきます。そんな苦痛や医療を知らない人が「性格は変えられるけど顔は変えられない」と盲信している裏で、気付いた時には自分に備わっていた性格や人生観の歪み、希死念慮、絶望感、諦観、焦燥感に殺されそうになりながら。そうした性質によって伴侶を得られないことは果たして本人の努力不足でしょうか?私のお付き合いした女性の中にも、生育環境による事情で性質や価値観、反応や反射が著しく病的に歪んでしまった人が居ます。本人も認めていることですが、端的に言って「性格は本人の努力(だけ)の問題」と言っている人の手には負えないでしょう。ですから私は、「外見は本人の努力で変えられないから」という論拠でもって、例えば個人的な恋愛における面食いを否定されることや、外見で伴侶を選ぶことの全否定は好みません。性格で選ぶべきという強制も好みません。(ただしこれは、「顔で好きになった」という動機や、「顔が好みでないと交際に発展できません」という伴侶選びに関する自由意志を否定されるのを好まないだけであり、そもそもモデルなど職業的に外見的査定を受けることに合意している人以外を捕まえて外見を批評すること、外見的評価を下して優位に立つ遊びは否定します。)
ただ、だとして「面食い」という佇まいを大雑把に受け取れば「見た目で人を裁いてオッケー」という層を後押しする節は必ずあるでしょうから(いくら私が細かな差異を解いたところで、勝手に追い風に使われるのでしょうし、)その意味で言えば私は現在も多くの人を苦しめながら(そして「顔デカのデブで肌の汚いおばさんが面食いとか何様」と笑われている自分自身の首を締め上げながら)商売をしている部分もあります。あまりに「面食い」を否定され「美人は三日で飽きるのに顔で選ぶなんて人間的に成熟していない証拠」と諭され続けて、一時期は「私はブスのほうが飽きるので」と言って憚らない時期までありました。暴言だったと今は思います。(ただ、「美人は三日で飽きるのに」についてですが、これはかつて「巨乳のアナウンサーに朝からニュースを読ませるのはハレンチだ」という苦情型のセクハラにも見られた、「外見がこういう女は知能が劣っている」という差別的偏見ですから、「美人は三日で飽きるのに」については引き続き猛反発したいと思います。以前はそれに反発する余り、軽い気持ちで暴言を発してしまいました。)

「男はこのポイントで女を選ぶ」みたいなテーマの企画の当番が回ってきたこともあります。まとめるべきアンケートに目を通して愕然としました。「料理がうまい」「さりげない気遣いができる」「家事がしっかりできる」…腹の底では「家事代行や執事派遣の会社と広告タイアップ記事でも作れば?それともケータリングサービスの特集にする?」と思いましたが、出向先のプロダクションでの居場所を失いたくなかったので黙ってやりました。私が関わったその記事を真に受けた女性は、焦りを感じて無理に料理の練習をしたかもしれません。共働きなのに自分ばかり家事を頑張った女性がいたかもしれません。

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE・イベントの様子

夫を「旦那」と呼ぶ若い女性を、年配の男性が捕まえて「主人と呼びなさい」と叱り、それに反発した女性が「ご主人様ではない対等な関係なので主人とは呼びません!」と押し問答をする席に巻き込まれて帰れなくなった日は、「面倒だからお爺さんの前では適当に主人って言って丸く収めてくれないかな」と思いながら傍観しました。(「旦那」という言葉にも「商家の主人」や「パトロン」という意味があるから、「主人は男尊女卑だから旦那と呼ぶことを推奨する」という論調には首を傾げてしまうけれど、それはそうと、)「(女は男の伴侶を)主人(と呼ばなければならない)」という抑圧自体には疑問を感じているわけで、それでありながら私はその日、そんなことより早く家に帰りたいという自分の人生を優先したいのと、自分に矛先が向くのが面倒で「丸く収めてくれ、あなたが主人って一言言えば済むんだから」と思いました。(「夫」だったらもう少し簡単に助け舟を出せたと思うし、しかしその女性は伴侶を「旦那」と呼んでいたので助け舟の出し方が決まらず、私も困惑していたというのもあるのですが、)その女性は、せっかくその場に居合わせた同じ女性である私がいつまでも助け舟を出さなかったので、心細かったと思います。

既存のジェンダー観に立ち向かうべきである。とは思うものの…

既存のジェンダーの檻や既存の偏見に立ち向かって、私たちより若い世代にのびのび生きられる社会を遺したい。…そう分かっていても、遠くの蜃気楼の先にある(かもしれない)明るい未来より、目の前のやりくりに負けてしまうことが私にもたくさんあります。

「職場で飛び出してくる男尊女卑ネタに、愛想笑いで応じてしまう自分が嫌だ」みたいな悩みを持っている人はたくさんいて、私もまたその一人です。「中村さんって、レズだっていうからもっとボーイッシュかと思ったら女性的なカラダしてるねぇ」とか言われて、「あははは」って普通に笑顔で返してしまうとか、全然あります。その時は、心をシャットダウンすることに夢中で「そもそもボーイッシュかどうかと体つきって関係なくない?」という単純な疑問すら抱けず、後になってじわじわと、冷静に疑問を持てなかった自分や笑顔で応じた自分に嫌気がさして、時差で心が蝕まれていきます。

みたいな話をしたら「女性的なカラダっていうのはエロいって言ったんじゃなくてふくよかだって意味だからセクハラじゃないよ、レイプとかはされないと思うから安心して」と、〈女性的なカラダ〉をした男性に諭されたこともありました。「ちゃんと嫌なことは嫌だって言わなきゃ」という思いが強くなるのとは裏腹に、日々、心をシャットダウンするのが上手くなるのを感じます。

こういうとき、私はもともと生まれてきたくなかった、苦しんで死ぬのが怖くて惰性で生きているだけ、痛みも恐怖も孤独もなく楽に死ねる方法があるなら是非あやかりたい!という思想の人間ですが、仮にこうした人生に対する嫌気のすべてが解決したとしても、仮に私個人の問題がすべてハッピーに解決したとしても、私という一人の人間に限ったすべてが幸せだとしても、それでも社会に出れば「中村さんって、レズだっていうからもっとボーイッシュかと思ったら女性的なカラダしてるねぇ」みたいなことを「女性的なカラダっていうのはエロいって言ったんじゃなくてふくよかだって意味だからセクハラじゃないよ、レイプとかはされないと思うから安心して」みたいなことを「主人と呼びなさい」みたいなことを「嫁の貰い手」みたいなことを「女はいざとなったら体売ればいいんだからいいよなー」みたいなことを「女だからどうせ仕事ができない」みたいなことを「どうせ女だから仕事が取れたんだろ」みたいなことを言われるんだなーと思うと、私の個人性とは全然関係なく、二重にこの世界からフッと消えたくなる。

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE・イベントの様子

来てくれた人の中に、新社会人の人が居て、やっぱり「ジェンダー的に無神経な言葉が行き交う社会で働くことが怖い」みたいな話をしてくれて、結局、どう上手くまとめようとしたって、どんなに言いこと言おうとしてみたって、無駄っていうか無力っていうか、無理なんですよね。だってもう、どう考えても、新入社員が、その、ジェンダー観のまま出世できた上司に、或いは、旧時代的なジェンダー観で平気で居られる人とかに、新入社員が、多分仕事もまだ全然っていう評価をされている新入社員が楯突いても絶対いいことなんてないんですよね。損得で生きろとは思わないけど、今大々的に楯突いても「なんかうるさいヒヨッコが入ってきた」程度にしか思われないだろうし、真摯に受け止めてくれる人は少ないと思う。多分。大多数が真摯に受け止めるタイプの場所だったらまだ4月になって2日しか経ってないのにもうジェンダー的に無神経な発言が横行してるなんてこと起こらないと思うし。私たちにはまだ苦しい時代が続くし、私より遥かに若い新社会人さんには、居心地のいい社会をまだ作ってあげられていなくて申し訳なく思うけど、もう少し耐えて、でも、疑問を言い返せる気力や余裕がある時はなるべく疑問を口にしながら、社会人として第一人者を目指していって欲しいと思います。こんな答え、全然正しくないし優しくないし、結局ハラスメントを肯定しているだけのような気がして心苦しい限りだけど、一朝一夕で穏便に解決する方法はきっとないし、まだ新入社員のうちに職場での居心地を賭して大義名分のために戦うのはリスクが高すぎるし、悲しい、悔しいことだけれど、職場を熟知して、ある程度仕事ができるようになるまで、耐えながら、少しずつ発言力をつけて、静かに戦っていく以外、目先の労働環境を守りながら変えていくっていうのは無理なんじゃないかなって、思っています。こんな割り切り、ちっとも正しくないけど。
ドカッ!って変えるには、大きく意義を申し立てて議論を巻き起こすには、静かな労働環境を保った上で、なんていう切実で繊細な願いは叶わないから。つらいことだけど。私の言っていることは全く正しくないけど。

 

「女性蔑視の考えの人がほとんどなので、(同じ男性として)心苦しい。」

これも、私の中でジェンダー観が偏っている部分が生み出す偏見なんだけど、なんとなくこう言うイベントの来場者は女性一色だろうと思っていたら、男性の姿も。

自分と同じ属性に対する苦言を聞いていると、自分の行いではなくても肩身が狭くなる、というのってあると思っていて、例えば子育ての話をするときに、無理解に批判的な人が「日本人は子育てに無理解」って言ったりするのを聞いていると、グッタリするんですよね。私が駅でどれだけベビーカーを担いで階段を上っても、子供にジュースをかけられた気に入りのワンピースを諦めても、具合悪くて優先席に座っていたら妊婦さんに怒られて立ち退いても、私が日本人である限り、「日本人は子育てに無理解」って言われるんだなって思うと、「いくら言われても全然大丈夫!頑張って理解を示してこれからもどんどん貢献していくぞー!」なんて気持ちが湧いてくるほど私は真っ直ぐな人間にはできていないから、私たちが何を頑張ってもあなたは「日本人は子育てに無理解」って私たちを一括りにするんでしょう?って反発したい気持ちが湧く。(べつに「理解してます!」って言い切れるほどすべての人に手を差し伸べているわけではないから、「ちゃんと理解してます!」なんて思ったことも言ったこともないけど。)

だから私たちが大雑把に「男性社会」と言うとき、男女同権を気にかけて生きている男性もまた、肩身が狭かったり居心地の悪さを感じたりするのだろうなと想像したりして、心苦しさへの共感をしたりする。「日本人は子育てに無理解」「都会の人は冷たい」「レズに気をつけて」「今の世代は苦労を知らない」「マスコミの人間はクズしかいない」こんな言葉を耳にするたび、もう私たちをイジメないでくれ!各々の人生で忙しいんだ!と耳を塞ぎたくなってしまう。
自分が責められているような、すごく嫌な感じ。
もちろんそこでヘソを曲げないで公平な社会のために心を持ち直すことは、「そういう姿勢をとるべき」ということは、人として当たり前のことだと思う。けど、当たり前のことを実行するのって、必ずしも楽じゃない。心を制御して、楽な思考に振り向かず、利他を選ぶ瞬間を継続していくことは、大仕事だから。

自分が属する何かに対する苦言を咀嚼する人を私は尊敬するし、自分の心が苦しくても、耳が痛い言葉を咀嚼していく行為を選び続けなければ、公平への願いなんてすぐ、〈強い者たちの楽〉が作る恐ろしい渦に飲み込まれて、藻屑のように粉々に消えてしまうんじゃないかと思う。

なにも男女に限った話じゃなくて、雇用とか、職場での上下関係もそうで、上司からの部下いじりとか、待遇とか、取引先との力関係とか、みんなそう。

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE・イベントの様子(男性来場者と語らう中村)

私は多分、今私たちが感じている息苦しさが社会から消える時代が来るとしたら「まだ、10年とか20年とか30年とか、もっとかかるかな、結構先のことだろうな」と思ってて、私が働き盛りの間には叶わない(私たちが恩恵を大きく受けることはなさそうだ)と想像しているんだけど、だからって、私たちの世代が考えることをやめてしまったらもう終わりだから、草の根運動でしかないけれど、少しずつ「それ、ダメですよ」「そういうの他人に言って面白いと思ってるんですか」「それ言って問題ないと思ってるんですか」っていうことに誠実になっていかなきゃと思ってる。

そう言いながらもきっと、私はまた「男のホニャララ」みたいな仕事を、原稿料や編集料が良ければ、引き受けるだろうけど。目先の生きる糧のために。

異分子だと思われるリスクを分担し合いながら

でも、こんな私ですが、最近は少し言うようになったんですよ。「男の家事っていう記事なのに私が担当していいんですか?」とか「どう男女差を出せばいいんですか?」とか「おたくの会社の認識では男の人はこれ以上の家事を理解する能力がないっていう認識で合ってますか?」って聞いてみたりして。疑問がある箇所は全部聞いた。そしたら、『俺をナメるな!ホンキの男の家事』みたいなニュアンス(でも基礎以下みたいな内容ばかり)だったタイトルが『これができると妻が喜ぶ!夫の家事』みたいなニュアンスの文言に変わってた。今度、主題が「妻を喜ばせるため」みたいなことになっちゃって独身者が置き去りになったし、喜ばなくても自分の分の家事は自分でやったって何ら不思議ではないだろ、みたいなのはあるんだけど、でも、粘ってみる甲斐はあるなって思った。
関係者の中には、「中村は屁理屈ばっかりでうるさいよな、嫁の貰い手あるのかな」って言う人もいた(のだそうだ)けど、「これまで疑問に思わなかったけど、言われてみればそうですよね」っていう人も居てくれて、言ってみるもんだなって思ったり(でも私は運が良かっただけかもな、これで干されることだってあるしって怖くなったりも)した。

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE・イベントの様子(聞き手の室田尚子氏と中村)

まだまだ安心して何かを言える社会ではないし、男女格差だけじゃなくて、結婚にしろ育児にしろ、ある階層やある属性に辿り着かなければ幸せじゃない、みたいな価値観に私たちは押しつぶされたり飲み込まれがちだから、「居るぞー!」って、異分子だと思われてしまうリスクをみんなで少しずつ分担して「それに異議を感じている人間が居るぞー!」って言っていけるといい。言えなかった人を責めることなく、もっと強く代弁してくれない人を責めることなく、矛盾を抱えた同胞と争うのではなく、私たちを苦しめる本質を拒絶していきたい。

立派な人ではないから、バツが悪いけど…

当然、当然というか、「ご存知の通り」ぐらい言ってもいいのかもしれないですね。私は何から何まで正しい人間ではないし、個々人としては私を嫌う人もいる。私の行いを良く思わない人や、実際自分自身で振り返って「あれは本当に良くなかったな」と思う後悔も今すぐ消え去りたいほどたくさん抱えている。これからも失敗と後悔を増やしながら生きていくんだろうと思う。事実だけでもこれだけ後悔があるところにもってきて、意図的に殊更悪く書かれることだってあるし、悪意でもって物事を誤解に導く人もいる。いたずらに、なんかむかつく同業者を落とそうみたいな人もいるし、同じ仕事を取り合った人から受ける嫌がらせもあるし、誰かの名誉を守るために私が悪くならなきゃいけなかったことだって幾度もあったし、私の実際と関係のない悪印象を抱かれることもたくさんある。…まあ仮に「いや、それ本当は私が悪いんじゃないから!」みたいなのが全部なかったとしても、「これは本当に私が悪かった。ごめんなさい」というものもたくさんあるから、どっちみち、バツの悪い人生を送ることには変わりないのだけど。なんにしても、正しさ(だと私が信じているもの)を説くとき、本当はとても後ろめたい。私は立派な人間じゃないし、成熟した人格者ではないし、間違った行いもたくさんしてきた。無自覚に人を傷つけたこともあったし、私を傷つけた人を傷つけるつもりで意図的に反撃したこともある。「あいつは性格が悪い」と言われたら、「100%の悪人ではないですけど…」程度のことは一応思うけど「いいえあなたの誤解で私は人格者です」とはとてもじゃないけど思えない。思うことといえば「あなたが垣間見た私は、明らかに私の醜い部分でしたね」とか、「仮にあなたの見た私が真実と異なったとしても、あなたがその虚構を信じる一因を作ったのは、私の醜い部分だったのでしょうね」とか、そんなことばかりだ。「100%の悪人なんていない」っていうのは真理の一つだと思うけど、ある側面に於いて私が誰かに対してすごく悪い人間だったことはあるし、よほど無自覚な人でなければ、結構みんな誰かに対して悪い人だったりする。「悪い人だった」っていう単位まで行かなくても「悪い人になってしまった時はある」ぐらいの自覚は、割と誰にでもあるんじゃないかと思う。
じゃあそういう、ある種の悪さ、正しくなさを抱えたら、何かに異議を唱える資格を剥奪されてしまうのかって言ったらそういうことではないし、社会的に「これはこのまま放っておいたらダメだよね」ということには、自分が立派な人間ではない恥に耐えながら、異を唱えていかなきゃなと思う。思うし個人的に私を嫌っていたとしても、社会的なことに関して賛同してくれる部分があるとしたらその部分だけは割り切って同意して欲しいと思う。どうせお互い同じ社会を生きていくのだし。仲良くしてとは思わないし、私もべつに私を嫌っている人と仲良しの友達になりたいとは思わないけど、社会は、各々の大事な人も嫌いな人も混ざって生きて行く場所のことだから。個人的な後悔や正しいことを言うバツの悪さは、次の世代に差別を温存していい理由にはならないし。

私よく、嫌いな人(何か直接トラブルがあった人とかじゃなくて、なんとなく気に食わない全然知らない芸能人とかでも)が何かを主張すると、どう考えてもその主張が自分にとっても自分の大事な人にとっても良いことだったりするのに反発してしまうことがあるんですよね。理由は分からない。分かりたくないだけかもしれないけど。
自分の嫌いな人が、私が言おうと思ってたこと言ってるから癪に障ったのかもしれないし、ちょっと知ってる人だったりすると「そんな綺麗事言っちゃってるけどあんたがどんなに根性悪か私は知ってるぞ!お前の本性私は知ってるからな!」みたいな意地悪な気持ちになっちゃうのかもしれない。全く知らない人だと「私の嫌いなお前が私とピッタリの主張を持っているなんて信じないぞ!」みたいな変な選民意識が発動してしまうのかもしれない。そうして、どう考えても自分の目指す主張にうまく賛同できなかったとかもあって、そういうのもなくしたい。心をきちんと制御できるようになりたい、と思っている。社会全体への利益と、「あいついけすかねぇな」っていうのは別のことだし。
さっきまで自分が全く同じ主張をしてたのに、あんまり好きじゃない人の私と全く同じ主張がリツイートされてきて、イラッ、みたいな。ほんと、バカみたいなんだけど、そういう目先の意地に振り回されてしまうこともある。

だから、こんな愚かで浅ましい私の話を頷きながら聞いてくれる人たちに、いつも「こんな私で本当に申し訳ありません」と、胸の内では思ってる。それを出してしまうと卑屈に見えてしまうから、あまり出さないようにはしているんだけど。本当は私はこんなこと偉そうに話せるような立派な人間じゃないのに、お時間と、お金まで頂いてごめんなさい、私の話があなたの何かになっているのでしょうか、って。不安と申し訳なさとお詫びの気持ちとバツの悪さと、でも、これはちゃんと話さなきゃ、ということの間で心がぐっちゃぐちゃに乱れてる。

心の淀みとか、自分の立派じゃなさへの躊躇とか、頑張ったところで無意味な気がしてしまう社会に対する虚無感とか、私は何のために生まれたの的なこととか、いろいろあると思うけど、ためらわずに公平を欲してもらいたいと思います。公平っていうのは、誰かの得を奪って別の誰かが新たに得をすることじゃなくて、誰かにさせてきた損を無理矢理奪ってきたものを返す形で実現するものだと思うんですけど、そういうのを目指すために、時間や人員が途方も無いほどかかりそうなところで、「俺は、私は、人に何か言えるほど正しい人間じゃないから」っていう自省で、ある種の謙虚さによってみんなが口を閉ざして、その結果、次の世代が得られたかもしれない公平性を減らしてしまうのって、取り返しのつかないことだと思うので。

「言いたいことはあるけど自分なんかが言ってもいいのか」「自分も誰かの何かを奪っているかもしれないのに、社会的なことを言うなんておこがましいんじゃないか」という相談、よく受けるんですが、そこは割り切ってください、と思います。「この分野においてはこの正しさを守りたいんだ、ほかのことは未熟で不勉強だけれど」という矛盾に耐えることもまた、未熟な私たちが大人という役割をどうにかこうにか果たして行く上では欠かせないことだと思います。

メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE・イベントの様子

写真:フォトグラファー 伊藤竜太 Lyuta Ito Photography
音楽家の素顔(イベント聞き手の室田尚子氏と伊藤竜太氏のコラボレーションブログ)