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ハートをつなごう授業「LGBTのハローワーク」登壇|東京レインボーウィーク(+感想日記あり)

TOKYO RAINBOW WEEK 2014「ハートをつなごう学校」横断幕

TOKYO RAINBOW WEEK2014の催しで、ハートをつなごう授業「LGBTのハローワーク」というイベントに講師として登壇してきました。参加者の皆さん、スタッフの皆さん、お疲れ様でした。イベント終了後の感想日記が更新されています。

イベント情報(終了)

ゴールデンウィーク特別企画 第二弾!
「ハートをつなごう授業」

ハートをつなごう学校

〜ゴールデンウィーク特別企画 第二弾!〜「ハートをつなごう授業」
共催: NPO 法人LGBT の家族と友人をつなぐ会/NPO 法人シブヤ大学/Tokyo Rainbow Week 2013

昨年大好評だった「ハートをつなごう授業」の第二弾!
子どもたちを対象としたセクシュアリティの授業を今年も開催いたします!

今回は7名の先生をお招きしました。
TOKYO RAINBOW WEEK 2014「LGBTのハローワーク」告知

1時間目にはレズビアンで漫画家の中村珍先生をはじめ、様々な分野で活躍する先輩に「仕事×セクシュアリティ」というテーマでいろいろなお話を伺っちゃいます。2時間目にはトランスジェンダーの杉山文野先生が、元フェンシング女子日本代表という経験を生かして、セクシュアリティを越え、みんなでワイワイと体を動かす授業を!(見学もOK!)そしてみんなでお昼ご飯を食べた後の3時間目、ガーナと日本のハーフである矢野デイビッド先生がリズムを通して繋がる楽しさを教えてくれます!普通の学校では教えてくれない大切なこと。 セクシュアリティに限らず、カテゴリーを越えたコミュニケーションで楽しい1日にしましょう!また、昨年に引き続き、子どもたちの授業とは別にLGBTの家族や友人向けのワークショップも同時に開催いたします。 皆様お誘い合わせの上、是非ご参加ください!

日時: 5月5日(月)10時〜15時
場所: ケアコミュニティ 原宿の丘
会場URL: http://www.ss-kousya.com/institution/community/harajuku.htm
参加費: 当日の昼食・資料代として1,000円を徴収させていただきます。

【授業1】 「ハートをつなごう授業」
《内容》
Ⅰ. オリエンテーション(【授業2】と合同)
Ⅱ. 「LGBTのハローワーク」 講師:中村珍先生(他3名)
Ⅲ. 「みんなで体育!」 講師:杉山文野先生
Ⅳ. お昼ご飯(【授業2】と合同)
Ⅴ. 「リズムで繋ごう!」 講師:矢野デイビッド先生(【授業2】と合同)
《対象》25歳以下(授業は一日通して参加出来る方に限らせていただきます。)
《定員》30名(定員を超えた場合は抽選とさせていただきますのでご了承ください。)
【授業2】 「LGBTの家族と友人のためのワークショップ」
《内容》
Ⅰ. オリエンテーション(【授業1】と合同)
Ⅱ. 「LGBTの今、どうなってるの?」 講師:山下敏雅先生、佐々木掌子先生
Ⅲ. お昼ご飯(【授業1】と合同)
Ⅳ. 「リズムで繋ごう!」 講師:矢野デイビッド先生(【授業1】と合同)
《対象》LGBTの家族・友人の方(授業は一日通して参加出来る方に限らせていただきます。)
《定員》30名(定員を超えた場合は抽選とさせていただきますのでご了承ください。)
中村珍先生|杉山文野先生|矢野デイビッド先生|山下敏雅先生|佐々木掌子先生
《参加申し込み》
授業に参加申し込みの方は下記を記載の上、メールにてお申し込みください。
① お名前(ペンネーム可)
② 年齢
③ セクシュアリティ(可能な範囲で)
④ メールアドレス
⑤ 以下、希望参加方法を abc でお答えください。
a. 【授業1】ハートをつなごう授業に生徒として参加
b. 【授業2】LGBTの家族・友人のためのワークショップに参加
※ LGBT当事者とのお関係をご記載ください。(例:当事者の家族、学校の友達、会社の同僚、等々)
c. 【授業1】【授業2】にそれぞれ親子(もしくは家族・友人)で参加
※ 参加される人数と全員分のお名前(ペンネーム可)、年齢、LGBT 当事者との関係を記載してください
⑥ 何でこのイベントをお知りになりましたか?
テレビ(   )・新聞(   新聞)・ラジオ・ネット・その他(    )
⑦ このイベントに参加しようと思った理由を聞かせてください。
⑧ この授業で希望することがあればご記載ください。
以上、8項目をご記載の上、下記のメールアドレスよりお申し込みください。
e-mail:heartschool.tsunagaru@gmail.com
終了しました。
《抽選申し込み受付期間》
4/11(金)〜定員に達し次第閉め切らせていただきます。
結果は4/22(火)以降に順次メールでご連絡させていただきます。

《講師プロフィール》
◆ 中村珍
イラストレーター、漫画家、ライター、デザイナー、講師、イベントMCなど何でも屋として、フィクション・エッセイ・ルポ、コメディ・シリアス、議論・ゴシップ、ジャンルを問わず活動中。28歳。殺人を犯した女、自らを慕うレズビアンに殺人を依頼した女、2人の逃避行を描いた『羣青』(小学館)/主人公を取り巻く家庭の事情と同性の恋人と過ごした時間を描いた『誰も懲りない』(太田出版)/同性から多額の金品を貢がれる様子が収録されたエッセイ『アヴァール戦記』(新潮社)/ ほか
自身が作話を担当する既刊は全作にセクシャルマイノリティが登場。扶桑社「週刊SPA!」で連載中の育児ルポコミック『混迷社会の子育て問答 いくもん!』では、パートナーが子供を産む選択をしたことをカムアウト。彼女と3人の子供の育児の様子を紹介。
公式サイト:https://ching.tv/
◆ 杉山文野(すぎやまふみの)/トランスジェンダー
1981年東京都新宿区生まれ。フェンシング元女子日本代表。早稲田大学大学院にてセクシュアリティを中心に研究した後、その研究内容と性同一性障がいである自身の体験を織り交ぜた『ダブルハッピネス』を講談社より出版。韓国語翻訳やコミック化されるなど話題を呼んだ。卒業後、2年間のバックパッカー生活で世界約50カ国+南極を巡り、現地で様々な社会問題と向き合う。帰国後、一般企業に3年ほど勤め、現在は自ら飲食店を経営するかたわら、セクシュアル・マイノリティの子供たちを応援するNPO法人ハートをつなごう学校の運営や、各地での講演、NHKの番組でMCなども勤める。
フェンシング元女子日本代表。東京レインボーウィーク2013代表。飲食店経営や各地での講演、NHKの番組MCなど何足ものわらじを履いて奔走中。
◆ 矢野デイビッド
Singer song writerとして都内を中心に活動している。20歳からモデルやCMの仕事を始め、「ユニクロ」、「リカルデント」、「エネループ」、「インテル」などの仕事を経て、テレビにも仕事の幅を広げ、「スポルト」、「世界ふしぎ発見」、「FOOT×BRAIN」、「5時に夢中!」などに出演。
また25歳頃にガーナでとある少年との出会いをきっかけに、「誰にも守ってもらえない子供たちを守りたい」という想いを抱く。
そしてその出会いがきっかけで、自立支援団体Enijeを設立。2011年に一般社団法人化し、一層力を注ぎ、教育を柱にガーナで学校建設や教育する側の教育、運動会やサッカー大会を主催。精力的に活動している。
ガーナの自立応援団体Enije HP
http://enijeproject.com/
Enije facebook page
www.facebook.com/enije
◆ 山下敏雅
弁護士。1978年9月,高知県南国市生まれ。2003年10月東京弁護士会に弁護士登録。川人法律事務所,弁護士法人東京パブリック法律事務所(公設事務所)の勤務を経て,2012年7月現事務所設立。
過労死・過労自殺事件,児童虐待等子どもの事件,脱北者支援,LGBT支援,HIV陽性者支援などに取り組んでいる。「GID法律上も父になりたい裁判」弁護団長。
◆ 佐々木掌子
1978年,東京都生まれ。2005年,臨床心理士取得。2010年,博士号(教育学・慶應義塾大学)取得。2002年より,クリニック(精神神経科)で性同一性障害の臨床に関わり始める。2011年4月~2012年7月,トロント大学附属中毒および精神保健センターに留学し,小児・青年の性同一性障害の研究と臨床を学ぶ。現在は,主婦会館クリニック(産婦人科)および慶應義塾大学病院(小児科)でカウンセリングを担当。2013年より,立教女学院短期大学現代コミュニケーション学科専任講師。

ありがとー!

このイベントは終了しました!ご来場ありがとうございました!ここからはイベント終了後の日記です。(講義内容の文字おこしレポートではなく、主観的レポート日記です。)
 
 

感想日記・イベントレポート

朝っぱらから千代田区中央区あたりは震度5でビックリして起きる、っていう嫌なスタートでしたが、天気は崩れずよかったです。五月晴れ。

「ハートをつなごう授業」ってどんなイベント?

今日のイベント「LGBTのハローワーク」のテーマは、

様々な分野で活躍する先輩に「仕事×セクシュアリティ」というテーマでいろいろなお話を伺っちゃいます。

との事なので、結局私は漫画家っていう超特殊な職業だし、あれこれ気を揉んだところで、正直に、当たり前のこと「セクシャリティで悩む事やセクハラがないわけではないけど、まあ特殊な業界ですからのびのび働けることのほうが多いですよ」を話すしかないから、自分の話をしてきました。

LGBTにとって出版業界って働きやすいの?

私の仕事がカミングアウトしやすいのは当たり前なんですよね。自営業だからカミングアウトしても自分がトップだし、クビ切られるとかないですから。運悪く取引先のすべてが差別主義者だったりしたらセクシャリティで失業する可能性も0ではないですが、そこは出版業界。良くも悪くも、「珍しい人」が好かれますからね。心配ありません。
ただこれは、あくまでも作り手として出版業に従事する場合であって、裏方、特に出版社や新聞社などの企業に雇用された場合などはこの限りではありません。
自営業やフリーランスの作り手の場合は、日本企業に多い〈規律を乱さずレールを外れずフツウの範囲内で輝かしい人材〉であることをアピールしなければならない面接とかもないですから、就職活動も地味なものです。黙々と自分の原稿を書いて、新人賞に出したりコンペに出したりして気に入ってもらえば、作家や記者デビューぐらいまではできるし。あとは需要がそこそこあればクビにされない(場合が多い)、みたいな(この側面に限っては)ユルイ業界だから。
今日私は、〈会社組織の名もなき歯車として働いていた私〉としてではなくて、〈漫画家の中村珍先生〉として呼ばれて行ったから、「漫画家として話せばいいのかな」って思ったものの、この中に漫画家(みたいな特殊な技能を必要とする職業)になりたい人がどれくらいいるか、なりたい人の中に本当に目指す人がどれくらいいるか、目指した人の中になれる人がどれくらいいるか、と現実的に考えていくと、どこか肩身が狭くて、誰の役にも立たない話、漫画家雑学みたいな程度の話しか出来なかったんじゃないかなって。なんか、後ろめたさ(?)が残っています。
だって、漫画家っていう商売には、会社組織の中に所属していた時に感じた〈替えが効く歯車としての私〉っていう立場で味わったことがある「マイノリティだってバレたら終わるかも」という緊張感とかないから。セクシャリティについてカナリ楽ができる立場から、私に何が言えるんだろう、みたいなのは常にある。
「会社組織の中に所属している替えが効く歯車としての私」っていうのは、卑下みたいに(漫画家でいる自分のほうが歯車の時の自分より上みたいに)聞こえるかもしれないけど、そういうことじゃなくて。
私の持ってる連載枠があって、そこは私が原稿を描かなきゃいけない(その時期・その契約下に関しては私以外にその仕事をこなせる人がいない属人的労働)っていうのと比べて、組織労働の歯車っぽい労働者をやってる時の私って(まあ歯車っぽい仕事しか任されない私の努力不足・技能不足・学力不足と言ってしまえばそれまでだけど…)めちゃくちゃ替えが効きやすい=ちょっとしたことで疎外されやすい危険性を常に感じていた、わけです。そういう捉え方をしてもらえるとありがたいです。

東大、早稲田、ANA、モルガンスタンレー、リクルート、漫画家。ハローワークになれるのか。(超面白かったけど!)

誤解のないように言うと、イベント自体はめっちゃ面白いわけ。もう、なかなか聞けない話が盛りだくさんで、すごいイベントだったの。モルガンスタンレー(世界的金融機関)とか、ANA(全日空)の国際線パイロットとか、リクルート(ゼクシィとか出してる大企業)の正社員とか、東大卒とか、早稲田卒とか、漫画家とか、都内の有名飲食店に生まれたとか、フェンシング日本代表とか、こんなのいっぺんに聞ける機会って(LGBTに関する社会的問題や個々人のコンプレックスと切り離せば、何の疑問もなく)面白そうだし貴重でしょう?

ただ、「(前途多難かもしれない)LGBTのハローワーク」になり得るか、と思うと、胸は詰まる。だって、これ、セクシャルマイノリティじゃなくたって簡単には叶わない経歴ばかりで。「せっかくLGBTの私たちが集まってるのに、LGBTどころか誰のハローワークにもならないんじゃないか?」って疑問に押し潰されそうになりながら壇上で自分の話を、虚しくなりながら、でも「せめてゴールデンウィークの楽しかった思い出ぐらいにはなってくれ」と縋るような気持ちで、してた。

本当にこれでいいのか悩む。でも、「この階層の話が役立つ」という人が存在する(かもしれない)ならこれでいいのか。って納得したり、でも「LGBTって生きにくさ・福祉・貧困みたいなトピックスから切り離せないでしょう?本当に私の話で、ひときわ輝ける生き抜く手段を持っている人たちの話(しつこく言うけど話は超面白かった)でイベントに来てくれた若い人たちの参考になるのかな?」という不安と後ろめたさで逃げ出したくなった。

楽しかったし、本当にトークは面白かったし、新しいとても良い友人も何人もできたし、いい日だったよ。タイトルの違うイベントだったらこんな迷いは起きなかったんだろうな、と思うと、何も考えずに生きていけば楽なんだな、とか、いけないことも思ったりしてね。

体育(見学もOK!)と自意識

お昼を挟んだ前後で、体育館で体育と音楽レクリエーションをしました。

2時間目にはトランスジェンダーの杉山文野先生が、元フェンシング女子日本代表という経験を生かして、セクシュアリティを越え、みんなでワイワイと体を動かす授業を!(見学もOK!)

案内の段階からきちんと「(見学もOK!)」と触れられている通り、見学でまったく問題なかったです。だからこれから話すことは、過剰な自意識っていうか、体育や同調圧力が大の苦手な私の『妄想じみた身勝手な疲れ』の話だと思って読んでもらえればと思うんだけど、こういうとき「ちゃんと楽しまなきゃ」ってプレッシャーを感じるのは、なんなんだろう。〈(あるかどうかもわからない)空気〉の読みすぎなのか、それとも「楽しいから仲間に入ればいいのに」って思っている人が実在しているからこっちも楽しまなきゃって感じるのか、大人になってもまだわからない。(まあケースバイケースだし、ある程度人数が集まってる環境下では大抵両方かなって思うんだけど。)

幸い私はこの日、「イベントだからちゃんとした格好で行かなきゃな」と思って少し高めのヒールで出かけて、道に迷っているうちに足がくたびれ果てて、道に迷っていたから時間もいよいよ無くなって、慌てて登った階段で最後にグキってやって「もうやだ歩きたくなぁ〜い」みたいになっていたので、「足が痛いんですいません」という大義名分のもと体育を見学したのだけど、もしケガ(というほどでもないが、まあ、ドッジボールとかはムリ、程度に痛い)をできなかったら、止むを得ず体育を頑張ったのだろうか。学生時代に嫌で嫌で仕方なかった悪夢のような体育を、自由な大人になったゴールデンウィークに。

なんとなく「みんなでワーキャー体育を楽しめる心性が多数派」「自分が混ざったらチームが負けるかも、走ってる姿を笑われるかも、みたいな恐怖に苛まれず体を動かせる人が多数派」という意識が私にはあって、体育が嫌で嫌で学校ごと大嫌いになってしまいそうだった学生時代を思い出して鬱屈とした気持ちになってた。

ケガができて本当によかった。

本当に足を挫いて来れて、気楽だった。「私はズル休みをしてるんじゃなくて、ちゃんと足が痛いんです!」っていう拠り所。歪んでいると思われても構わない。短距離走で足が遅くてビリになったこと、喘息がひどくて長距離走のたびにビリになって笑われながら走ったこと、息が苦しくて立ち止まると叱られこと、二重跳びができるようになったのも倒立ができるようになったのもクラスで最後だったこと、だから帰れなかったこと、みんな100メートル泳げるのに50メートルしか泳げないこと、ドッジボールで飛んでくる全部の球が取れるようになるまでクラスメイトからボールを投げられ続けたこと、どれもこれもこの場で起きたことではないし、この場の人には関係ないし、私の思い出の質が悪いせいだし、関係ないんし、このイベントは「(見学もOK!)」って優しいアナウンスまであったんだけど、私はきっと心のどこかで「でも、見学より参加の方がいいんだよね?」「参加と見学どっちも同じ価値だってみなさん本当に思ってるんですか?」って疑ってて、自縄自縛っていうのか、あんまり上手に楽になれなかった。なんにしろ「体育に出なきゃ」という感覚が28歳になった今でも恐ろしいということを思い知った。

あれを楽しめる人種を敬遠せず、これを楽しめない人種を無理に巻き込まないことが、私たちが「多様性」と呼んでるやつかな、と思う。

参加した人がみんな、参加したくて体育に参加していたなら本当に何よりだし、もしあの中に、本当は体育なんて嫌だったけど流されてやった子がいたなら、義務じゃないから休んじゃないよ、みたいなことを思っている。ケガをできなかったらきっと休めなかった私が。

もしかしたら、今朝、もっと踏ん張れたかもしれない階段で素直に足首を捻ったのは「体育の授業がある」というのが頭のどこかにあったからかもしれないなと、自分を疑ったりもしている。いや、道に迷っている間に集合時間スレスレになって焦っていたから、ヒールじゃなくてスニーカーでも全然挫いたかもしれないんだけど。

「繋がる楽しさ」「コミュニケーションで楽しい1日」

午後は「リズムで繋ごう!」っていう音楽のレクリエーションで、みんなで手を叩いたり、

そしてみんなでお昼ご飯を食べた後の3時間目、ガーナと日本のハーフである矢野デイビッド先生がリズムを通して繋がる楽しさを教えてくれます!
普通の学校では教えてくれない大切なこと。 セクシュアリティに限らず、カテゴリーを越えたコミュニケーションで楽しい1日にしましょう!

繋がる楽しさを教えてもらったり、コミュニケーションで楽しい1日にしたり、という課題(だと思っているのは私だけで、多くの人に取ってはレクリエーション?)だった。
講師はめっちゃくちゃお話の上手な先生。授業内容そのものは凄く面白かった。

ただ、ここでも「自然に自発的に結果的に人と繋がるのは好きなんですけど、その場のみんなとワイワイ繋がらなければならない価値観の中で繋がることには苦渋以外何も感じません」という私に、みんなでリズムを取って一体感を感じながら手とか叩かなきゃ空気が壊れちゃいそう、という高い壁が立ちはだかった。

みんなでリズムを刻むことで連帯感を感じて楽しいタイプの人はそれでいい。何も悪くないし、それが許された場であるならば何の遠慮をする必要もない。私はその楽しみを(それが楽しい人だけが実行する限りは)否定しないし、思う存分楽しめばいいと思う。と、同時に、それが全く楽しくないタイプの人間が、全然盛り上がっていなくても、不安がったり「水を差された」「場が白けた」と思ったりしないでほしい、という願いがある。他人の楽しみを積極的に邪魔するのは良くないと思うが、協力する筋合いはないと思うのだ。そして「協力してくれないのは邪魔をしているようなものだ」という人は自分の趣味嗜好を押し付けすぎだし、他人に期待しすぎだと思う。だから私は積極的に邪魔をしないから、私が平然と冷めたままいることをそっとしておいて欲しいといつも願う。
…願うが、まあ、でもね、わかるんですよ。普通に考えて、ノったほうが絶対いいよねこれ。
多数派の空気に合わせれば丸く収まる、という意味でもそうだし、せっかく来てくれた講師の先生への敬意という意味でも、個人の好みを問わず場の空気に準じ(殉じ)ることが必要な場合もあると思う。私は強引に群れなきゃいけない空気の扱いが苦手なだけで、講師の先生のお話や手法や演奏には感激しているけど、とは言え、更に場を盛り上げるための補佐的な動きを関係者としてすべきだったなという後悔もある。(あと単純に自分が登壇中に会場が温まってないとヒヤヒヤするしね。)

〈場にふさわしい人材〉になるか、〈ありのままの個〉を貫くか

そんなわけで私もリズムで繋がることを楽しいと感じる努力をしたり、仮に全くリズムを刻むことが楽しくなくても楽しいフリをするべきだろうか、とか、でもじゃあ、もし仮に今日の参加者の中に、「みんなでワイワイしてリズムを刻むのは楽しくない」「繋がることが楽しいって価値観の中に押し込まれるのは嫌だ」と感じている子がいたとしたら、私がここで楽しいフリをしたらその子の生きにくさに加担することになってしまう?と考え出したらもうどうしたらいいかわからなくなってしまって、鏡がなかったから分からないけど、多分私は、虚ろな顔をして、リズムを刻む明るい人の輪を見つめていた。

誤解がないように言うと、私は音楽が好きだ。音楽は楽しくて楽しくて仕方ない。音楽のない生活なんて考えられない。
自分もブラスバンドに居たくらいで(人数不足以外の理由で重要なパートを吹いたことは無いが)演奏が嫌いではないし、(音楽室やカラオケボックスなど歌を歌うための場所でなら)歌うことも好きだし、技量のある人の演奏も歌声も(自分が参加せずただ静聴していていいなら)鑑賞は大好きだ。職場でも音楽をかけていない時間はほとんどない。管楽器も弦楽器も鍵盤楽器もどれに触れても楽しい。休日があれば歌を作ることもある。テレビゲームをすればどの曲がどこでかかってそこに動員される楽器はそれぞれ何なのか記憶している。映画を見終えたらサウンドトラックで劇中曲を全部聴き直す。それらをもって私は自分が「音楽大好き!」だと自負している。
その一方で、たとえば「誰かが音を奏でたりリズムを刻んでいる時に、自分から音を出すのは大嫌い」だ。だから、コンサートの「客席の皆さんも一緒に歌いましょう!」とかは本当に苦手で、「ええーっ!私は大好きな歌手の音楽を聴きに来たのに、どうして素人の自分や隣席の人の声を聞かなきゃいけないんだ」と、居心地の悪さを感じてしまうことがある。どんなに好きな歌手のコンサートでも、だ。「大好きな人と一緒に歌えた」みたいな感覚は全く湧いてこない。ただただ「聴きたかった音楽に、別の音声が混ざって耳に届いている」以外の何も感じない。特に自分の放つ音は一番近く大きく聞こえるから、「なぜ私はお金を払って音楽イベントに来てまで自分が発する訓練不足の音を聞くことを要求されているのだろう???」と困惑してしまう。(でも「あの一体感が楽しい」という人の気持ちは分かる。その価値観の中では凄く楽しいことだと思う。私は不特定の人との音楽的一体感に無関心なだけであり、特定の、例えば自分が所属しているブラスバンドのメンバーとの一体感や、親しい人とのカラオケや、見知った人との合唱サークルなどは楽しめるから、一体感の良さ自体は知っているし、一匹狼を気取っているわけではない。むしろ音楽の集まりには積極的に所属したがるタイプだ。私はたまたま、「不特定の相手と不測の事態の中でそれをすることが嫌」というだけで。)

いろんな音楽の楽しみ方があって、音楽が大好きだからって、必ずしも自分がその音に参加したいか、というとそうではない。黙って聴くことが楽しいケースもある。結果、『不特定のみんなと楽しむ音楽』を私が愉しめたことは一度もない。だから、クラブで自分の好きな曲がかかってもフロアに出ようなんて思わないし、でもその曲を帰り道に一人じっくり聴いて帰るのは大好きだ。フロアに出て踊ったり一緒に歌う人を「楽しそうでいいね!」と思うし、だからって「羨ましい」「ああなりたい」とは全く思わない。でも「ああはなりたくない」とも思わない。私は私の音楽との距離がある。

私が「リズムを通して繋がる楽しさ」を教わり切れていないことを見たスタッフの面々が、何度も私を見ていた。「状況から考えて、楽しそうにすべき」「楽めていないと心配されるタイプのイベント」ということだと思う。だってみんなあんなに不安げに私の顔を見てる。隣にいた人は、手拍子が小さかった。私と同じで、あまり自分が音を出すことは好まない人だったのかもしれないし、私のノリが悪すぎて、やりにくかっただけかもしれない。

じゃあ、これは、自分がリズムに乗っても、不特定の人との一体感の中にあっても、全然楽しくない私が、楽しそうに振る舞うことは、そこかしこで聞く『LGBTの疲れることあるある』みたいなやつでしょっちゅう出てくる「男女の好みの話で盛り上がっているのに無理矢理合わせる」っていうときの精神性と本質的に何が違うんだろう?(そりゃあセクシャリティと違って音楽へのスタンスがどうでも実生活でそれほど困ることはないから、ここで演技をしても全然いいんだけど…。)
そう考えると、よくわからなかった。

パーっと明るい笑顔を作ることもなくリズムに乗ることもなく、クラシックコンサートを静かに真剣に聴いている時みたいに、じっとしていた私は、わがままで大人げない?「せっかくの楽しみに水を差してる」と思う?男女の恋愛話に盛り上がってあげられない同性愛者に異性愛者が言う「ノリ悪いなぁ〜!もしかしてアッチ系?」みたいに、「ノリ悪いなぁ〜!もしかして音楽嫌い?」って。(セクシャリティを適当に解釈されるのと違って音楽嫌いだと思い込まれても実生活でそれほど困ることはないからさしたる問題ではないのだけど。)

細かいことを考えなければ「面倒だから合わせとけ」主義なので、本当は、こういうところで、なんとなく流れに合わせて笑顔で盛り上がっているほうがある意味においては気楽だ。角が立たないし、悪目立ちしない。

心を無視するほうが生きやすいけど

心を置き去りにして行動を選ぶのなんか簡単だ。

本当は人と意見が食い違うことも、周りと違うことをするのも、自分に正直でいることすらも何もかもが面倒に思う性分だから、ありのままの自分を無視して嘘をついて適当に求められたアクションやリアクションをする。それで何もかも円滑なのだから、そうやって生き抜けばいいような気もしている。楽だから。でも、私がそれを選び続けた時、私と同じ息苦しさを感じて生きている次の世代の子供はどうなるのかな?と思うと、せめて人前で何か話す仕事をしている時間は、個が個であることに忠実で居てみようとも思って、実際それを試みている。多数派でいることに気づかないほど多数派の人は、自分と違う意見の存在や自分と違う人種に、慣れていない。あまりにも慣れていない。だからせめて、見慣れて欲しいと思っている。そうして「あいつは頑固で変わり者で冷たくて攻撃的で偏屈だ」と言われ続けて生きた先に、私一人分の「いろんな人がいる」という感覚が、残れば嫌々ながらも生きてきた甲斐が少しはあるかなと思う。煙たがる人もいるし、喜ぶ人もいる。あいつは頭がおかしいと指をさす人もいれば、あなたはこういう人なんですねと掌を差し出してくれる人もいる。意味のわかった単語だけキャッチして適当に解釈する人もいれば、句読点の隅々まで読破して理解に近づくための想像を試みてくれる人もいる。どうせみんないろいろだから、私に限ったことはなんでもいいのだけど、ただ、なにしろ今日は、〈LGBTの若者が生きやすくなるための〉という大義の前で、私はどう在ることが誠実か、どう見える自分でいるべきか、分からず、決められず、ひたすらひたすら悩んでいた。

嘘をついてリズムに乗って、「みんなの楽しい空気に水を差さないことが重要」と考える人もいたと思う。私が楽しんでいなくても気にしない人もいたと思う。「楽しくなさそうな人がいたら気にかけてあげなきゃ!」が正義の人もいたと思う。スタッフが私を見ていたのは、私を心配したからなのか場の空気を心配したからなのか知らない。「音楽に参加するか否かの好みとセクシャリティ問題は根深さが違うから、同列みたいに扱うのはおかしい」という人もいるだろうし、「いや、自分でリズムを刻んで楽しめるのがその場のマジョリティなのだから、楽しむ空気に合わせたらマイノリティとしての敗北になる」という人もいるだろう。「参加者なら楽しまなくてもいいけど関係者なのだから楽しまないのは大人げない」と感じる人もいれば「中にはそういう人が居ないと楽しめなかった参加者の拠り所がない」みたいな考え方もあるかもしれない。

ありのままで生きていく勇気を持つためのイベントで、私はありのままの私の心を殺したほうがいいだろうか。
建前としては「ありのままの気持ちを殺すのが正解」だと思う。そのほうが「イベントが成功した」という業務的正義に近いから。

でも今日は、よくわからない。

1日を終えて。

楽しかったんだけどね。
細かいところで自分の気持ちをどこに置いていいのか悩んでばかりの1日でした。
でも楽しかったよ。

もっと、うろたえないようになりたい。
今日はこういう佇まいを選んで生き抜くぞ!って決められるようになりたい。

(開催時間が被ってしまって聞けなかったんだけど、弁護士の山下敏雅先生と、臨床心理士の佐々木掌子先生の授業、聴講したかったな。)

言い尽くされた余談ですが、「同性愛者の人って特別な才能がある人多いよねー」とか「LGBTの人って芸術系のセンスあったりするよねー」とか言われがちなのは、(近年の)才能業界ではセクシャリティでクビを切られることが(昔と比べて)ない、とか、そもそも特殊な商売をしている人は人に雇われておらず自営業の人が多いから、カミングアウトしやすいってだけですよ。
そんなこと言ったら、異性愛者で特殊な仕事してる人のほうが圧倒的に多いんですから。