『超みだれ』シリーズの反省点
女性だけが発情しまくる奇病
・突発性発情症候群
『超みだれ』シリーズは、〈突発性発情症候群〉という「所構わず発情してしまう」奇病に犯された女性たちのエロコメディとして制作されました。1作目と2作目は2008年。3作目〜最終作は2011年2月に掲載されてシリーズは実質終了しています。
中村珍「超みだれ茸」より(初出:週刊漫画ゴラク 2011年2月18日号・2011年2月4日発売)
詳しくは、各話の試し読み を参考にしていただければと思います。
2011年をもって終了した理由は著者や版元の能動的なものではありません。5作目を掲載した翌月に起きた東北地方太平洋沖地震の影響で私が多額の損失を被ってしまい、定期連載以外の仕事に着手する余裕が、金銭(=アシスタントの人件費)的にも時間的にも精神的にもなくなり、自然消滅的にこの企画は消えていきました。もし東日本大震災が起きず、新作執筆の余力があったら、シリーズ単体での単行本化を目的とした連載化があったかもしれません。
「所構わず発情する」ルール
「所構わず発情する」というのは、文字通り、所構わず発情しかしません。
所構わず発情した結果、所構わず他者の体に接触したり、他者の体を興奮を昂めるための補助として凝視したり、所構わず処理に勤しんだり、ということではありません。所構わず発情だけ、するのです。
作中では、奇病という扱いになっていますが、「所構わず発情する」ということ自体は、実際誰にあってもおかしくないことです。たとえば、「仕事中、ふと今晩夫と眠る時間に期待を寄せたらドキドキしてきた」とか、「子供が欲しいなと思っていたら連想ゲーム的に幸せな行為を想像してしまった」とか、それも広義には「所構わず発情する」に当該するでしょう。
ただ、本作はコメディですから、主人公が迫り来るピンチ(性的なことを想起させるような外部からの突拍子もない刺激など)から逃げ・逃げそびれ・逃げきったと思ったらまた出くわし、という構造で笑いが成立しています。
そのため本作における「所構わず発情する」は、外部からくるなんらかの情報によって発生する、という機序が定められています。
中村珍「超みだれ髪」より(初出:週刊漫画ゴラク増刊9/25号 ゴラクカーニバル!!・2008年8月18日発売)
たとえば、日常的に努めて理性を保っているのに、〈交番〉という、日常に潜む何気ない文字が「交わる番(つがい)」を想起させる(=突発性発情症候群の発作が起きる)ピンチになってしまう。
〈突発性発情症候群〉というのは、そういう設定で成り立っています。
ちなみにこの「交番=交わる番」というのは著者がなんとなく交番を眺めていて「交わる番ってすごいな」と思ったのがキッカケのシーンです。さすがにこの文字列を見て私が発情することはありませんが、この、「ふとしたはずみに連想する」を相対化・拡大化したのが、ストーリー展開の主たる仕組みです。
雑誌掲載時と電子版再編時の修正点
正直、画稿まで完全に描き換える予算も時間もないので(私がそれをパッと捻出させられるような経済力のある作家だったら、そもそもこのマンガを収入源の1つとカウントせずに、時代の産物として絶版にしておけますから…)テキストの差し替えや、ページやコマの差し替えが極めて平易に完了する箇所以外は直せませんでしたが、いくらか修正を施しました。
(註*まだ電子書店で配信されているほうに1ページ1ページ目を通していないので、もしかすると「あれ!?ここ直ってないぞ!?」みたいなことが、校了時にうっかり見落としてしまったり、アクシデント的に差し替え前に戻ってしまったりで、ある可能性もなくはない…のだけれど、少なくとも私がnoteに個人出版したほうは直せる限り手を加えてあり、それを元に各箇所の修正依頼を版元さんに出したので、多分直っているとは思いますが…。未確認なので、ここで私が言及することは、一先ずnoteに掲載されている当該作の原稿をベースにしています。)
発情の原因を他者に転嫁している描写があった
雑誌掲載版のシリーズ第1作目『超みだれ髪』は、高校のプールの授業でのドタバタが主な舞台の1つになっています。
プールと言えば水着。
突発性発情症候群の当事者であり、ふとした外部からの刺激で発情してしまうことを悩んでいる主人公の前に、この日、最初に立ちはだかる困難が水着と更衣室です。
プールの授業を目前に更衣室の前で、主人公・紗英は「発情しないこと」を心に誓います。
中村珍「超みだれ髪」より(初出:週刊漫画ゴラク増刊9/25号 ゴラクカーニバル!!・2008年8月18日発売)
「大丈夫!!」と自分に言い聞かせて扉を開けた主人公。
…結局、劣情を催してしまうのですが、ここで著者は「なんてかっこうをしているのー!」という問題発言をモノローグに採用してしまいます。
中村珍「超みだれ髪」より(初出:週刊漫画ゴラク増刊9/25号 ゴラクカーニバル!!・2008年8月18日発売)
読みやすさ(字面が平易かどうかとか文字数)的には及第点だと思います。
補足を入れたりして各方面に気を遣えば遣うほど文字数は増えて読みにくくなりますし、“ネーム構成のお作法”として(のみ)検討する分には、この採択はアリです。
しかし、「なんてかっこうをしているのー!」もなにも、この女子生徒たちは一人残らず、校則で決められている水着を着ている(その組織に恙無く在籍するにあたっては自由選択の権利がなく一律このデザインのものを着させられている)だけであって、べつに彼女たちが好き好んで、発情した者を煽る格好をしているわけではありません。
これは性犯罪の被害者に「露出の高い服装をしていたのではないか」「服装に問題があったのではないか」という言葉が投げかけられる問題と通底します。学校で定められた制服を着て、スカート丈を短くするでもなく、校則で決められた靴下や靴を履き、校則で決められた黒い髪をしていて「清楚系の“JK”が大好き」という人に襲われた時、果たして「服装に問題があったのではないか」という指摘は通用するでしょうか?こういう場合に限っては「被害者は校則を守っていたのだからこの場合は加害者が100%悪い」になるのでしょうか?
でも、「服装に問題があったのではないか」という言説は、「加害者の性衝動を煽る服装が悪い」という論旨で語られています。だとすれば、校則通りの姿がやはり「加害者を煽った」=「服装に問題があった」ということになってしまいます。
註*実際は服装の露出度との因果関係が証明されるような決定的な傾向は見られていません。
参考
「レイプされた時、あなたは何を着ていた?」 性暴力と服装の相関関係を問う、アメリカ大学の展覧会|「被害者非難」に対するアンチテーゼが込められている。Alanna Vagianos|ハフポスト
尤も、「合意形成された者同士が・合意を実現して差し支えない環境下で・お互いの性欲や発情を煽ること。」…これはまったく問題ありませんが、それ以外の場合は、仮に好き好んで「なんてかっこうをしているのー!」と揶揄されやすそうな格好をしている人が居たとして、この女学生たちがまんざらでもない気持ちでスクール水着姿を披露していたとして、或いは、スカートを下着が見えるほど短くしていても、襟を広めに開いていても、髪型が“遊んでいそう”でも、極論、裸で歩いていたとしても、それでも、「理性を保つ」という一択以外、絶対にあってはいけないですから、本来、「校則で決められているものを着せられているだけなので」という理由も、「なんてかっこうをしているのー!」という追及を逃れる理由にはなりえません。なぜなら、そもそも、追及すること自体が御門違いなのですから。追及を逃れる理由というのが、まず必要ないはずなのです。
この問題が絶対に“屏風から出てこない虎”なら(三次元に何の影響もない二次元のエンタメとして完結するなら)、読みやすいですからこのままで良かったのですが、そういう世界ではないので、実際に「きっと挑発的な格好をしていたにちがいない」という論法で被害者が責められやすい世界ですから、電子化にあたって修正しました。
「発情してしまった側が相手の服装を問う」という機微が誰かの胸中に存在すること自体は(胸中に存在するだけなら)、とっさに思ってしまったことですから致し方ありません。反射的な「すごい格好だな!」というのはあると思います。仮に〈突発性発情症候群〉という病気の設定がなかったとして、「どれほど性的に関心があるものを目にしても、絶対に胸中で・体内で発情するな」というのは心身の仕組み上、無理があります。
しかし、それを「心身の仕組み上、発情するのは当たり前」という乱暴な前提で、言葉を精査することなく発露するというのは正しいことではなかったと思います。心身の仕組み上、発情したとして、それが本能的に仕方ないことだとして、だとしても、それを発表することはまったく本能ではありません。理性や知性で制御すべきことです。それをせずにそのまま「なんてかっこうをしているのー!」という“発情責任の転嫁”表現を気軽にしてしまったことは、恥ずべきことで、私の言葉の選定は害悪でしかありませんでした。
中村珍「超みだれ髪」より(修正版初出:2018年3月・電子版・ちんまん~中村珍マンガ集 コメディ短編だけ~|日本文芸社)
「発情した上で、どういう言動を選ぶのか」というのが、人間が問われるべきところだと思うので、主人公の「愉しんでしまいそう」という自覚・感情は敢えて特筆しています。その上で、「離れよう」「そんな目で見たくない(愉しんでしまう動物的な自分が居たとしても、社会を構成する人間として、そんな目で友人たちを消費したいとは思わない)」というのが、現在配信されているほうの本作の世界の中に生きている主人公の主義です。
性愛を感じ、それを積極的に享受したい性質の人間が、〈欲情(が心身の中でのみ沸くこと)そのもの〉を消し去る必要性や可能性は、個人的には感じません。必要なのは、発情を自覚し(=愉しみそうになる自分の存在を把握し)、自分の性衝動をコントロールできることです。性愛を感じるようになる段階で、性別は何でも、大人はもちろん、学生や子供のうちに、とっくに身につけているべき倫理観と人格だと思います。
また、更衣室前のシーンでも、「発情したって自己完結できる」「自分はずっとこの病気と付き合ってきた」「(薬がなくても、辛いだけで、投薬時以上に気をしっかり持てば)理性はちゃんと残せる」という矜持を再確認してもらいました。
中村珍「超みだれ髪」より(修正版初出:2018年3月・電子版・ちんまん~中村珍マンガ集 コメディ短編だけ~|日本文芸社)
品格のあるシーンだとは思いませんが、高校生ともなれば性的な関心があるのは男女問わず当然です。ですから、当人が持ち得る性的な興味を削ぐような描写(発情のスイッチになりそうなものに無反応でいるとか)は、このシーンに限らず加えていません。
註*ここで言う「高校生ともなれば性的な関心があるのは男女問わず当然」は、「性欲があるのが当然」「性愛に積極的になるのが当たり前」ということではなく、年齢的に性愛に関する話題が増えてくるマジョリティとの会話内容や、学校で受けた性教育の回数も加味して、「自分の性がどういうものなのか」「他人の性がどういうものなのか」などを含めた性に関する事全般に関心が向き、自分が性に関してどういう存在なのか考えることは、不思議ではない、ということです。この主人公は、たまたま「性的な欲求を感じるタイプのセクシャリティであった」から、「性的な関心が増える年頃に、水着姿に対して興奮する、というリアクションが起きる」というわけであり、「このくらいの年頃になればどんな子でも性愛に積極的な状態になるはず!」と主張しているわけではありません。
参考
恋愛しなくちゃいけないの? アセクシュアルの私が感じる生きづらさつつ|ハフポスト
興味は示した。しかしその上で、興味は自分の中だけにしまっておく。
それが理性のコントロールだと、今現在の私は考えています。
念のため申し添えますが、「そもそも女性は同性の水着に発情しない!水着がエロいというのは男性的な視点!」という観点の指摘は、ジェンダーやセクシャリティに対する思い込みが含まれる発想です。
もしこの発情の仕方が必ず男性的視点であれば「おっぱいを触らせてもらう方法」を公言して憚らないレズビアンや、「温泉や銭湯に入ると見放題」と嬉しそうに教えてくれるバイセクシャルなど存在するはずがありません。この話で「レズやバイってやっぱり危険なんだ!」という誤解は受けたくないですが、セクシャルハラスメントを喜んで積極的に行いたがる人種というのは、女性を性愛の対象としている男性の中にも、女性を性愛の対象としている女性の中にも、女性を性愛の対象としているすべての性の中にも、居ます。もともとの数が異性愛者男性のほうが圧倒的に多いので、女性への性犯罪=男性による犯行が目立ちますが、実際はセクシャリティを問いません。
ですから、本記事は「女性である高校生が、同性の女子生徒の水着に劣情を催す描写は男性的視点的か」という箇所は問いません。
学校側に相談はできないのか
この主人公はどうすべきだったか、ということを考えると、理想を言えば「実は突発性発情症候群である」ということを学校側に相談し、プールを休むべきだったかもしれません。ただしこのカミングアウトは相当なリスクを伴います。
「所構わず発情します」というカミングアウトを、それも、学生時代にするというのは、その閉ざされた社会で生きるか死ぬかを賭けた壮絶なカミングアウト体験になるでしょう。
(ページ数制限の問題や需要と供給の問題、私のスケジュールの問題などあらゆる事情によって叶わないことだったのでそういう挑戦ができなかったことを無念に思いますが、もしも学校という特殊環境でのカミングアウトとその後の学生生活まで描けたらコメディの枠を超える一作になったと思います。)
中村珍「超みだれ髪」より(初出:週刊漫画ゴラク増刊9/25号 ゴラクカーニバル!!・2008年8月18日発売)
主人公が学校側に相談できない理由に関するエクスキューズと呼ぶには目立った描写ではありませんが、今年のプールは今日が初日という日に、今年度はまだ誰もサボっていないし、サボりかどうかも確認できないことについて「生理を理由にサボるな」という軽口が飛んでくる学校ですから、担任の対応も期待できません。
次に、本作の設定時に思考を巡らせた部分についても、触れておこうと思います。
たとえば、本作で患者として登場するのは女性だけです。