(still under construction)

同性愛者である私から見たコミックヘヴン(「正直者と萌えの湖」の掲載誌)

『中村珍マンガ集 ちんまん -コメディだけ』(日本文芸社)カバー

〈性的嗜好エッセー〉が受けた、〈性的指向への対応〉の変革

日本文芸社・漫画ゴラクの増刊「コミックヘヴン」で、2012年10月から私の個人的な萌えについて描き散らかすだけの、『珍萌』という(2018年時点で刊行された単行本内で『正直者と萌えの湖』と改題)、ためにならないエッセー漫画の連載が始まってます。

真面目なお話をすると、この『珍萌』という漫画、私が「女性」だと性別のみ公表した上で、私が同性愛者であることを明示することなく(仰々しいカミングアウトみたいな公表イベントをすることなく)、性的指向(自分はどんな性別としてどんな性別の人が性愛の対象になるか〜みたいな、根源的なこと)に触れることなく、性的嗜好(自分は性愛においてどんな好みがあるか、こういう人がタイプ〜、こういうことするのがたまらない〜みたいなこと)について描けています。

これ、すごいことなんです。少なくとも私は、こんなに私の性的指向をほったらかされたことはありません。まあ女性アイドルに入れ込んでる女性のファンだっていくらでも居るし、同性の何らかに(恋愛対象ではなくても)惹かれる人だって少なくないし、性指向と関係ない趣味嗜好のエッセーだという見方もできるんですが、同性愛者であることを一切明言せず、なのに、「女性と交際」みたいな記述だとかが本文に、しれっと出てきます。

なんの説明もありません。すごい。
常に「なぜこの漫画の主人公たちは同性愛者であるか、という必然性」「なぜ男女ではなく、女性同士である必要があったか、説明になるような描写」…たとえば私の過去作『羣青』で言えば、“女性的=ドロドロ・怨念・感情的・愚か・精神的・暗い・重い”みたいな偏見を持つマジョリティーに納得してもらいやすい「このドロドロした重さは男女カップルには出しにくいですよね?、よって、羣青は女性同士の物語である必然性があったと認定して頂けますよね?」みたいな査定を受け続けることが当然でした。女性同士の恋愛を描くからには、男性キャラクターが不必要な理由が必要でした。理由がないと「じゃあ男女で描けばいいじゃん」と返されるのが普通でした。作品外のプレゼンか、作中のストーリーテリングにより、必ず説得を成し遂げる必要がありました。
同性愛者に限らず、『LADY STANCH』にも「主人公が“オカマ”である必然性がない」という意見が多く寄せられました。(委細は「あとがき」に記述。)
一体なぜ必然性など必要でしょうか。あなたが異性愛者である必然性はなんですか?あるんですか?そこまで必然性にこだわるなら、あなたが異性愛者以外が出てくる漫画をわざわざ読む必然性はなんですか?と問いたくなります。
唯一「男女でやらない必然性は?」という質疑に納得いく点があるとすれば、編集部や出版社が問う「多数派に設定を合わせていないマンガが、売れなかったらどうするんだ」だけです。
そういう攻防戦の中に、常に居ました。

たとえば同性愛者の存在が身近にない人が、「女性は男性が好き」「男性は女性が好き」という無意識の前提がある状態で読んでいたら、「あれ?中村珍って男なの?」とか混乱したりするかも。
「ちゃんと私のセクシャリティを書いておかないとわかりにくいかな?」って心配してしまうくらい、“私は女性で同性愛者なんですけど”という注釈を省いた状態で描いていますし、それがそのまま載っています。

こういうのって、なんて言えばいいんだろ、「レズビアンが描く好みの女性についてのエッセイ!!」みたいなマイノリティを売りにした…とでも言えばいいのかな、“作者のこの部分が特殊です”っていう情報を入れてくるのが普通(よくある売り出し方)なんですけど、そういう、見世物的な売り出し方もしないんですよね。「ここに珍しいヤツが居るよ〜!寄っておいで〜!あなたの知らない世界をこの変わったヤツが見せてくれるよ〜!」みたいな。

私の意図じゃなくて、編集部さんからチェックが入らないから、自然にそうなってるっていうのがすごいなと思うんです。
もう、どこまでも“普通”の扱いなの。男が描いても女が描いても同じ煽り方。
たとえば、「胸のサイズをカップで語るのは愚か!」「貧乳ってネガティブだから低脂肪乳とか呼ばんか」みたいなことを話していた回についたアオリは、「おっぱいを語るわよ」だけ。私が何者であるかとか一切触れてこないの。『女性の好み』を語る上で、描き手が男性である必要も女性同性愛者である必要もない。
そういう“細かい”ことは打ち合わせでも誌面でも全部無視。

同性愛者への理解を求めて権利を主張していく上で、“普通扱いしてもらうこと”を必要以上に有り難がるのはチガうと思うけど、(だって私たちは居て当たり前だから。)それでも、「異性愛が絶対」のような社会に居ながら、担当さんも編集長も、お二方とも異性愛者である中で、この善良な無関心は嬉しいし、やっぱり有り難い。

作者の性指向通りに嗜好を描いて、それだけ。あとは何も言われない。女性と交際していた記述をしても、打ち合わせやネームチェックの時に「ここに(中村が同性愛者であるという)説明を入れたほうがいいですね」(=同性と交際するという特殊な状態には理由と説明が必要だ)というツッコミが入らない。むしろ私のほうが気になっちゃって、「私がレズ(※私は自称する時のみ、一般には蔑称とされることの多い「レズ」という呼称を好んで選んでいます)だって説明入れます?」とか提案してしまうぐらい。
私は担当さんの善良な無関心に慣れてしまっている節があるので、この提案をした時の担当さんの反応もまったく珍しい響きではなかったから細かく担当さんがどう言ったか忘れてしまったけれど、私の「同性愛者だって説明したほうがいいですか?」という問い掛けへの
担当さんの返事は「べつにいらないんじゃないですかね〜」みたいな、サラッとした即答だった
と思います。たしか。忘れちゃったけど。

(そういうニーズに応えようという側面がないわけではないかも知れないけれど、少なくとも私に提示されている要求は)『百合エッセイ』という括りじゃなくて、『個人的な萌えや嗜好に関するエッセイ』としか言われてない。
“百合というジャンル”ではなくて、“著者の性指向と合致するものが描かれているだけ”という環境下で女性同士の恋愛感情が描かれた物語を手に取れる・描ける、というのは画期的です。
『フツウ』が蔓延する社会から一切の逃避…、逃避?…逃避じゃないな、好き好んで逃げてるわけじゃないし、難儀を避けたいだけだから、「避難」か。私たちが実生活を送る、『フツウ』が蔓延した社会から、精神的避難を一切せずにいても大丈夫な居心地の良さって、すごいです。
ジャンルとしての百合が悪いわけでは決してないけど、しばしば“百合というジャンル”はセクシャリティの真実を隠す機能を発揮してしまう(「自分にとってこのセクシャリティが普通だから女性同士を描く・読むのである」ではなく、「そういうジャンルの作品が好きだから」とか「今って百合が流行ってるから描いてみようかな・読んでみようかな」という誤魔化しに、使われたりする場合がある)ので、百合の外で、女性同士でいられるっていうのは、すごいなと。
百合は百合でいいんですよ。それから、隠したい人が無理に真実を打ち明ける必要もないし。
ただなんか、“普通”の漫画に「男の子と女の子の恋愛!」ってアオリがついていないように、「女と女の恋愛!」「百合!」って特筆されないっていうのは、新しいなって思いました。
しかもそれが、当事者の訴えじゃなくて、編集部からナチュラルに「べつに(説明)いらないんじゃないですかね〜」で成立しているっていうのがすごい。もちろん、ジャンルが特筆されたものも「何が供給されているのか」がハッキリしているから便利だし、『百合』に対する否定的な感情は含まれていないのでそこは読み違えないで欲しいんだけど。「女性同士の恋愛に特化したものだ」と特筆された作品や雑誌が悪いとか分かってないとかって話ではないから。

『百合』っていって注目されるのも大事なことだけど、「こういう形で無視されるのも凄くいい」っていう話。
だって普通のことなんだもん。
これまで専門店でしか扱っていなかった特殊な食材が、近所のスーパーでも自然に売られるようになった。暮らしやすいね、便利だね。って思った。みたいなこと。

どうして言及してこないのかいちいち確認を取っていないので、担当さんが何か働きかけをしたのかも知れないし、無意識のままこういう状態を実現できる編集長という可能性もあるし、だから、これが理解や共感の類いの結果かどうか私は知らないんだけど。そのあたりは私はどっちでもいいんです。意識的だろうと無意識だろうと、
私がわざわざ頼んでいないのにこうなるのは、どっちみち凄い。極めて優しい無視をされているよね〜、と思いながら働いています。

とは言え、この連載自体『女性を性の対象として消費している』という括りに入るし、性の対象を「どっちがどういい」なんて公衆の面前で秤に掛ける内容なので、別の切り口で遺憾に思う人も居るかな、当然居るよなとは思うんですけど。ここを掘り下げると私は居心地のいい誌面を失ってしまうことになるので掘り下げることはせず、私は、〈善良とは言えない無視〉を選択しています…。(だからこの切り口ではこれ以上の追求をしません。)

先述した、セクシャリティの切り口に於いては、私はこの連載の在り方、誌面に盛り込む情報の取捨の基準って、とてもいいよね〜、って思っているのでした。

『珍萌』雑誌掲載時サンプル

後日談

この記事を読んだ担当さんから連絡が来た時に、「言われて(ブログを読んで)初めて気づいた」「編集長と、当たり前すぎて言われるまで説明の必要性に気づいてなかったよね、そういう視点もあったのか、みたいに話した」「それが中村さんの当たり前である以上、今後も説明はいらないと思う」みたいなことを仰っていました。(雑談ついでにサラッと話したのでメモを取っておらず、一字一句正しいとは限りませんが、こんなようなニュアンスでした。)
ナチュラルに普通扱いで、本当に驚きました。
漫画ゴラクは、ジェンダー的には旧来的というか、いわゆる“おじさん雑誌”の代表格ですし、基本的には男性ありきの物語が主軸として展開されている雑誌です。そこにニーズがある以上、商業的には今後もとても長いしばらくの間、ジェンダー的な溝は埋まらない漫画が多く展開されるだろうと私は思っています。シンプルに「漫画業界の最も大きな正義の1つは、ニーズに応えて、漫画が売れるかどうかだから」という理由で。
商売組織としてニーズに応えること、対外的イメージ、組織に属する個人の思想・発想・信条・方針というのは、いろいろ違って当たり前なんだけど、それにしても改めて「違うんだな」と思いました。逆に、雑誌全体のイメージ的には新時代的な、あらゆるマイノリティに寛容そうな雰囲気でも、同性愛者に対する差別発言を浴び続けて描くことになる、とかも全然ありますしね…。

「エロいコメディ」と一緒に「セクハラ」もしてしまったこと

同じ単行本に収録された他作とも共通する話なので、単行本の紹介ページの著者後記にまとめました。

「ちんまん~中村珍マンガ集 コメディ短編だけ~」(日本文芸社)


 

取扱書店

作品情報と収録単行本

第1話初出:2012年10月9日 コミックヘヴン Vol.2
第2話初出:2012年12月8日 コミックヘヴン Vol.3 2013年 1/10号
第3話初出:2013年 2月9日 コミックヘヴン Vol.4 2013年 3/10号
第4話初出:2013年 4月9日 コミックヘヴン Vol.5 2013年 5/10号
最終話初出:2013年6月10日 コミックヘヴン Vol.6 2013年 7/10
編集:日本文芸社/編集:週刊漫画ゴラク編集部
本記事は2018年に刊行された「ちんまん~中村珍マンガ集 コメディ短編だけ~」に収録されている『正直者と萌えの湖』というセミフィクション・エッセイに関するものですが、雑誌掲載時は『珍萌』(ちんもえ)というタイトルでした。『珍萌』は『正直者と萌えの湖』と同一作です。
著者はそれ以前にも同誌で編集部より「ちんコメ」と銘打たれたコメディシリーズの連載をしており、『珍萌』も単純に著者のペンネームである中村珍から一文字取ったものを提案されているだけです。「性的少数者を扱ったエッセイだから珍奇な萌え」というコンセプトではありませんので、ネガティブな深読みはご遠慮ください。
サーバー移転に伴い閉鎖したブログ記事を復刻・リライトしました。当時の雑誌発売情報や掲載チャプターに関する委細についての言及は、既に雑誌の告知をする必要がない現在、こちらの記事においては割愛しています。