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「ちんまん~中村珍マンガ集 コメディ短編だけ~」(日本文芸社)

『中村珍マンガ集 ちんまん -コメディだけ』(日本文芸社)カバー

 

女性だけが〈突発性発情症候群〉に罹る理由
 
なぜ「女性だけが罹る(所構わず発情する)」のか。
厳密な設定、つまり〈作中の科学〉で説明できるようなルールはありませんでした。
あくまでも読切企画ですから、フィクション用の理学・フィクション用の応用科学などを本気で詰める必要はなく、20ページ前後ならノリだけで充分やれる、というのが設定を詰めなかった制作上の一番の理由ですが、その他に、「理性を失った男性だとシャレにならない」「理性のある男性だとよくある風景になってしまう」(から女性だけにしておこう)というのもありました。

男性が〈突発性発情症候群〉の発作を起こす姿を(私が)絵にすると、“あまりにもふつう”なのです。
これは「男なんていつでも発情してるでしょ」という意味ではないですよ。男性が性欲を我慢するシーン・発散するシーンというのは、女性のそれと比較して、世界中のかなり多くのコンテンツに於いて“当たり前にあるもの”として描かれやすいので、主役クラスの抱える主題にするには、あまりにもふつうすぎる、という、制作上の都合です。「なんと!男性が発情するのです!」という作品があったとして、一体何が「なんと!」なんだ?…って多くの人はなるんじゃないでしょうか。そういうことです。
たとえ話ですが、「男性看護師モノのストーリーは、男性が看護師というだけで既に珍しいから、作中で起きるシーケンスはやや平凡でもコンテンツとして成立しやすい」けど「女性看護師モノはありふれているから、属性に加えて、珍しい何かを見つけてこないといけない」とか、そんなようなこととも近いです。男性が発情を我慢しているって、普通に、少年漫画とかでみんな散々見てますしね。
『I”s』とかでも、一貴くん(主人公の高校生)が伊織ちゃん(片想いしている同級生)と一緒にいて、ドキドキしているうちに「キカンボーが!」って勃ってしまったのを我慢してたりしましたし。ああいう、小・中学生が当たり前に読む市場にあった漫画の段階で既に多くの読者が、“男の子はこうなることあるよね”的に慣れ親しんでいる表現ではあるので、(『I”s』は、主人公の男の子にとって、片想いの相手の女の子がこれでもかというほどドキドキする存在として描かれているとか、主人公に感情移入できる読者がハラハラし続けることができる要素が詰め込まれている作品だから、その現象も一貴くんのピンチとして成立しますし、見飽きた感じがしないのだと思いますが)よほど男の子の性愛を扱うのが上手い作家さんでない限り、そういうのだけで場を持たせるのは難しいことだと思います。

私の筆力で(しかも男性の体で男性として発情した経験があるわけでもない私が)男性主人公の発情コメディを描いたら、“あまりにもふつう”としか言えない、どこかで見たことがあるシーンのつぎはぎになってしまう、と思いました。(まあ、仮にそれで描いてみたところで掲載以前に通るネーム描けなかったと思いますが。)

そういう事情なので、女性だけが〈突発性発情症候群〉に罹っているのは「女が発情するところ以外は見たくも描きたくもないぜ、ぐへへへ」みたいな動機ではなかったりします。(べつに、男女平等に検討していればいいという問題でもないと思っていますが。)

一応、具体的な検討はしてみました。

「理性のある男性が所構わず発情したとしたら?」と考えると、まぁ…、ふつう、興奮を抑えるため、速やかに現状を打破するため、トイレや自室など人目のない場所に籠って、器物や他者の私物を汚損することなく、人知れず処理しますよね。
註*処理の際の矛先について「器物や他者の私物を汚損することなく」と表現しましたが、必ずしも他者の私物等に向けて処理することが器物損壊罪とされるわけではないようです。本記事では便宜的に「器物や他者の私物」と表現します。
参考 女性に体液をかける行為に刑法のどの条文を適用するかは非常に難しい問題である園田寿|甲南大学法科大学院教授、弁護士|Yahoo!ニュース 国内

様々な性的嗜好を持つ男性たちに取材してみましたが、そういう答えでした。また、実体験として、以前男性の友人と映画を観ていた際、たまたま激しめの濡れ場のある作品だったため彼が元気になってしまうことがありました。(彼がセクシャルハラスメント的に私にそれを表明したのではなく、見て分かるような状態だったのでごまかしきれなかったから、正直に「処理してきたい」という対応策を打ち明けた、という成り行きです。)彼はトイレに行って処理して帰ってきました。〈良識や理性〉と〈性欲〉が鉢合わせて、体が本能に応じた変化を示した際の、普通かつ正しい対応だなと思います。(逆に、トイレに行ったのに「寂しくて一人じゃできない」「なんでこんなに女性がたくさんいる飲み会で自分で処理しなきゃいけないのか」と言って、上を向かせたまま帰って来てその場に居た女性に処理を求めた男性も一人や二人じゃありませんでしたし、「どうしても原稿が間に合わないけど他に手伝ってくれる人が誰もいない」と呼ばれて真夜中に一人で行ったら別の用事だったということも時々ありますが…。)
そんなわけで、理性のある男性が一人で器物や他者の私物を損壊することなく処理するというのは、これはただの「エロい気持ちになった良識的な男性がふつうにすること(=自己完結)」でしかない。コメディにならないし、ただの善良な一人遊びの絵面にしかなりません。

続いて、別のパターンを探しました。

「一人で出して処理する」ということをせず「抑える」姿を描くとして、抑え方が「母ちゃんを思い出して萎えさせる」の亜種「“ブス”を見て萎えさせる」みたいな方角にいってしまうと非常に問題があります。(そもそもその方法を描く気もないですが、これもギャグ漫画等で多様される発想なので存在は知っています。検討する意味はないので、検討はしていません。)
 

殺人だったら「いけないこと」という合意が取れている
 
じゃあ、「発情した結果、一人で処理もしない、抑えもしない、発散する意欲を(合意のない)外に向ける」としたら、これはもう、ただの性犯罪です。コメディにできないどころか、「性犯罪を突発性発情症候群という病気のせいにする」というかなり悪質な性犯罪ドリームになります。
この設定で笑いを取りに行くとすれば、殺人や通り魔や通行人を轢き逃げや万引きをする主人公を、それらが「いけないこと」という共通の認識が為されていない世界で、コメディ化することとそれほど変わりありません。
(昨今、マンガのzipファイルや楽曲データの違法二次配布などのデジタル二次万引きみたいなものが横行し、“本来ならば有料のコンテンツを無償で楽しめる賢い選択”かのように認識している人まで出ている始末なので、万引きについては万引き全般にしてしまうと微妙ですが、物理的万引きについては、なぜいけないか、盗んではいけないものを盗んだからいけない、という悪さの仕組みが理解できない人はなかなかいないでしょう。性犯罪の場合は「本能だから仕方ない」と、性犯罪は犯罪だという論調に抗う人も少なくありませんし、有料デジタル商品の無料二次入手はそもそもそれが売り物だと理解できていない人が少なくないので、これらが「悪事である」という共通認識が為されていないように思いますが、物理的な万引きはどれほど軽はずみにやったとして「本能だから仕方ない」ではなく「悪いことをしたらバレた」と、大抵の人は思うでしょう。)

殺人は(一般に)誰に聞いても、「犯罪です」「絶対にいけないことです」という共通の認識が成立しています。
たとえば私の大好きな漫画に、『死体さん、こんにちは』という短編があるのですが、理不尽に軽快に死体がドサドサ増えていく漫画です。私はこれを爆笑して読めるんですが、じゃあなんで爆笑して読めるかと言えば、単純に、(通常は)二次元から絶対に出てこない発想・主張・設定だからです。これを読んで「なーんだ!気軽にこの犯罪を起こしていいんだ!」と思い込んでしまう人はまず居ないだろうと安心できているから、です。
グロやホラーが苦手という意味での不快(=娯楽ジャンルとして合わない)による批判はあるかもしれませんが、「現実社会で“これが悪い事だ”という共通の合意が取れないから」みたいな文脈での批判は、おそらく起きないはずです。

“死体”(遺体、ひいては人の死)というものに縁がないから笑えるわけではありません。身近な人が亡くなったから自動的に死を悼むことができるかというとそういうことではないかも知れませんが(現に私も誰の死に対しても等しい在り方をしているわけではありません。妻が亡くなった時とたまにしか会わなかった友人知人が亡くなった時、親友が10代で事故死した時と80代の身内が大往生した時、家庭で虐待を受け続けた親友が若いのに亡くなった時の納得の仕方と医療事故が最期だったことは悔しいけれど百年近く生きた身内が亡くなったときの納得の仕方、身内が自殺していたことに気づいた時のショックの質と向かいのビルの焼け跡から毎週見掛けていた近所の人が発見された時のショックの質、ずっと一緒に暮らした犬の亡骸の横で遠くの誰かが亡くなったニュースを見る時、それぞれ、軽い重い深い浅い関係あるないだけでは測りきれない、引きずり方や捉われ方も含めて、様々な向き合い方になります。訃報を受けて、その日も普通に食事ができたときもあれば、知った瞬間に卒倒しかけたこともありますし、その一方で「僕は家族を亡くしたことで誰よりも辛い思いを知ったから人の痛みを理解できます」とかって人が虐待を受けて育った人に家族の大切さを説いたりしている現場に出くわすと「ハァ?自分の一番は自分の敷地の中にしまっとけ!」って頭に来ますし、色々です。)ただ、なんにしても、私がこの漫画を笑えるのは、死に触れた経験がないとかではなくて、完全に割り切って「これは漫画だから」「理不尽でめちゃくちゃでありえないから」「一般にこれを参考に殺人を肯定する人はいないだろうから」という理由で間違いありません。
しかも掲載誌は『ホラーM』という、かつて、ぶんか社から刊行されていたホラー漫画誌でした。つまりこの漫画のジャンルは殺人サスペンスですらなく〈ホラー〉という認識のもと制作されているわけです。著者さんも「ホラーMからの依頼」に対して寄稿している時点で、この現象(死体の山ができちゃったー!やばーい!どうしよ〜!みたいな展開)が描かれた原稿について「ホラー誌用の原稿」と認識していることが明白ですから、こちらは二次元の中だけの出来事として、安心して笑い事にしていられるわけです。「ホラーだし」って。

最近だと、“誘拐犯と虐待を受けていた少女の同棲”というコンテンツが問題視されていましたが、あれも、(模倣犯が増えるからとか、誘拐が増えるから、みたいな懸念ではなくて)批判の多くは、「実在する事件・事件の被害者をベースとした妄想を楽しむ行為に二次加害性が多分に含まれており、その妄想行為を社会に開陳することについて善悪の判断が曖昧な人が散見されるため」様々な観点から危惧するという論調でした。
参考 朝霞市の女子中学生無事保護のニュースの見方:監禁事件被害者の二次被害を防ぐために碓井真史|新潟青陵大学教授(社会心理学)/スクールカウンセラー|Yahoo!ニュース 国内 参考 「幸色のワンルーム」は許されるのか~誰が彼女を監禁しているのか?レインボーフラッグは誰のもの|水野ひばり

参考 実際の事件への誹謗中傷に酷似したマンガを、該当事件からすぐに描くというのは例えていうのなら、2011年の9月に「天罰※によって、大地震と大津波が起きて何万人も死ぬ話」を誰でも見られる場所に発表するのに近い。はてな匿名ダイアリー

参考 『幸色のワンルーム』放送中止に批判の嵐……弁護士・太田啓子氏が「誘拐肯定」の意味を語るサイゾーウーマン

実際、法廷での陳述内容から『家庭環境を問題視する疑惑ゴシップ』により被害者家族が苦しめられたことも明らかになっています。

追い打ちをかけるように親が厳しいから家出をしたという根も葉もない噂が流れました。途方に暮れました。
引用:『「2年間を返してくれ」「守ってあげられなかった自分を責めた」被害少女の両親が法廷で意見陳述』より|産経ニュース

模倣犯が云々ではなくて、こうした“この犯罪は必ずしも悪い事とは言えない”という論調が、被害者・被害者関係者へのバッシング、果ては加害者擁護に繋がってしまう、「加害者にとって生きやすく・被害者にとって生きにくい」皮肉な社会を後押ししてしまう、というのが問題のコアです。

長期監禁は、営利誘拐や人質などの短期の監禁事件とは質が異なります。外国の例では、被害者にかなりひどいことをする犯人もいます。しかし、日本の長期監禁事件の事例を見ると、犯人は少なくとも主観的には被害者を大切に扱うケースが多く見られます。(中略)犯人の気持ちとしては、被害者と仲良くなりたいと考える場合も多くあります。
長期監禁事件の典型的な犯人は、歪んだ幻想を持っています。女性(少女)と素晴らしい人間関係を持って、本人が思い描く理想の生活をしたいと感じます。通常、そのような思いは、空想や小説ビデオで満足するのですが、稀に実行してしまう人がいるわけです。
引用:『朝霞市の女子中学生無事保護のニュースの見方:監禁事件被害者の二次被害を防ぐために』より|Yahoo!ニュース

殺人系のフィクションが問題になりにくく、性犯罪(または合法・脱法の“好待遇”を受けることが可能な条件が揃った上での性的欲求の強引な発散)や、誘拐犯と被虐少女の“同棲”ストーリー(「自分が強引に拐った少女と良い人間関係を持ち、お互い幸せになれるのではないか」という幻想を好んで嗜むもの)などが問題視されやすいのには、こうした「この分野をエンタメ化してしまうには、善悪の判断がつかない人がまだ多すぎる、未成熟の社会を信頼できない」という背景があるかと思います。

現実の社会では(冤罪ではなく実際に)「発情した結果、一人で処理もしない、抑えもしない、発散する意欲を外に向ける」ということが厳格に裁かれる場合とそうでない場合が存在し、犯罪の加害者・被害者という言葉からそれぞれ想起されるイメージとは大きな落差があります。
「相手が嫌がっているのに性的なことを強引にするのは犯罪だと思いますか?」に1000人中1000人が「犯罪としか言えません」と答えられる世界なら性的なことを説明の少ないコメディコンテンツにしても問題は少ないでしょうが、現実を鑑みると、かなり難しいと思いますし、だから私も自家断罪の必要性を感じ、なぜこういうコンテンツを作るに至ったのか、その中でどういった思考の逡巡があったのかを書き留めておこうと思いました。
著者としては複雑な想いがありますが、やはり「この漫画は、完全な手放しで楽しんで頂けるものではないと思います」という注釈は最低限必要だと思いました。

「痴漢」というカジュアルネームで知られる類の性犯罪から強姦まで、まったく笑えない情景が私たちの世界では日常的に繰り広げられています。そして、被害に遭った方が二次被害に遭うというケースも少なくありません。
殺人や轢き逃げなどのように「悪いものは悪い!」として裁けるかと言えば、「悪いと言って事を荒立てたやつが悪い」という意見まで出る始末です。加害者側が華麗に社会復帰を果たせる中、被害者が失業・社会での信用を失うケースは後を絶ちません。
参考 「セクハラ失業」で非正規・貧困に直面する女性たち西川敦子(ライター)|内藤忍(独立行政法人労働政策研究・研修機構 JILPT副主任研究員)|毎日新聞医療プレミア

また、残念な事に、性犯罪を犯した加害者の性別は男性が圧倒的に多いため、〈真っ当に暮らしている理性ある男性たち〉のイメージが、性犯罪を犯した者たちや、性犯罪を擁護する者たちによって、悉く傷つけられています。
(冤罪ではなかった場合の本物の)性犯罪事件において、(冤罪で加害者扱いされたわけではなく、本当に加害している本物の)加害者が存在し、(冤罪詐欺等ではなく本当に性犯罪被害が生じた本物の性犯罪事件における本物の)被害者が多数実在し、それらの(冤罪ではない本物の)性犯罪事件における犯人の割合が圧倒的に男性が多数という社会に於いては、本作『みだれシリーズ』のようなタイプのコンテンツで男性が所構わず発情する様子を描いてしまうと、真っ当に生活している男性に「これだから男は…」という風評被害が、そして本物の加害者には「所構わず発情するのはギャグにできることなんだ!」という追い風が、それぞれついて回る危険性があります。
〈冤罪的に巻き込まれている男性諸氏への風評被害〉と、〈コメディ化による本物の加害者への追い風の発生〉を懸念した、という面も本作の「女性だけが罹っている」という設定の後押しになりました。
(女性の性犯罪者が存在することを軽視するわけではない、女性加害者の存在から目を背けるわけではないということは、女性の性犯罪者にターゲットにされたことがある身としても切実に強調しておきたいですが、ここでは、「なぜこの設定で男性を主人公にしなかったか」の理由をお話ししているので触れません。)
 

“Not all men”と咄嗟の防御
 
“Not all men”という発想はしばしば批判を受けます。
これは実際に被害を訴えている人が居るシーンに於いては、被害者への二次的な加害になり得ます。
参考 'Not All Men'はセクシストな偽善にしか過ぎない理由Erin|note
たとえば、「うちの勤め先は残業や休日出勤は当たり前だし、上司がきちんと現場を纏められないせいで、全部俺に責任が降りかかってきて、頑張っても報われなくて死にそうだ、本当に出勤が憂鬱だし、もしかしたらもう俺は鬱病かも知れないから休みたい」と話している時に「でも世の中には素晴らしい上司も居る!すべての上司がそうだと思うな!」と寄ってたかって言われたら(仮に言い方がこんなに厳しくなくても)煩わしいし、自分の切実なSOSが無視されたことで孤立を深めるものでしょう。他社とか別部署に神様みたいな上司が居ても、自分の問題と関係ないですしね。
「学校でいじめられていて、朝布団から出るのも辛いし、目が覚めて明日が来るのが怖い」という時に「いじめのないコミュニティもあるよ!世の中にはいじめられていない人もいるんだ!」と言われても、何にもなりません。自分はいじめられているのだから。
「搾取のような労働をさせられてお金がないから結婚も子供も諦めるしかないのか」と本気で悩んでいるところに「すべての職場がそうじゃない!なぜなら僕の勤め先はみんな年収1千万以上だよ!」と言われても、そんな格差の存在は知っているし、悩みを蹴散らされただけにすぎません。きみはそういう高いところで僕らにアドバイスしているだけだから気楽だろうけど…という感じです。
性犯罪被害に悩む人への「すべての男性はそうじゃない」という言説(を届けること)は、つまりそういうことです。
 
自分の心を守ろうとして顕になってしまう攻撃性?
 
ただ、自分と同じ属性(=もしかしたら自分かもしれない)を批判された者の感情としては理解できます。事実、すべての男性が性犯罪者なわけないんですから、「すべての男がそうじゃないぞ!」の中には、本当にそうじゃない人の切実な訴えも入っているはずです。(併せて、法的には潔白だけど内心は性犯罪者の犯行内容と親和性の高い性的嗜好を持つ人による反射的な防御、内心どころか実行してしまったことが実はある人の保身も入っていると思いますが、とにかく、「すべての男性がそうじゃない」ということは当然の真実です。)
だから、感情的には、それを言いたい気持ちはとても分かります。
私も、「日本の社会は育児者に冷たい」と言われると、べつに評価されるためにやったことじゃなくても、誰だか知らない人の重たいベビーカーを一緒に持って階段を上がったりするのはなんだったんだろう、この「日本の社会」の中に私は含まれるのだなって、嫌な気持ちになります。感情的には“Not all member!”と言いたくなります。(※英語的にこの表現が自然かは知りません。)
「同性愛者からセクハラを受けた」みたいな話を聞いた時も、やっぱり“Not all lesbian!” “Not all gay!”的なことを思います。

ただ、痴漢の経験を語っている人は「(犯人や自分をセカンドレイプした)男性は」という話をしていますし、自分がこれまで接してきた酷い女性について語っている人は本来「(自分の知る限りの)女ってヤツは」という話以外できないはずです。何か買ってほしい子供は「みんな持ってるもん!」と言いますが、本当に全員ではないことは本人的にも保護者的にも明白です。今私が言った「何か買ってほしい子供は」も、何か買ってほしいこの世のすべての子供のことではなく、「みんな持ってるもん!」を言うタイプの何か買ってほしい子供のことでしかありません。
「犬ってお手するじゃん」と言う人はきっと生粋の野犬は含めていませんし、「今日のごはん何?」と言う人のほとんどは、白米の銘柄を聞いていません。「今日学校体育かー」と言っている人は1時間目から6時間目まで全校生徒が体育だとは思っていません。

みんな(みんなではありません)言葉をザックリ話しているシーンはたくさんあって普段はスルーしている場合が多いけど、「自分がその属性に含まれていて批判の対象になっているかも」ということに関しては、反射的な防御として、“Not all men”の精神が湧き出すのかな、と、個人的には考えています。
実際、“Not all men”の精神を批判しまくっている人に「法定速度を破らないほうがいい」という話をしたら、いかに法定速度を守る運転が危険で邪魔か(周りのスピードに合わせないとむしろ危ない・後ろが詰まって渋滞の原因になる etc etc…)、いかに法定速度を破る運転が道路を安全に導いているかを、烈火の如く力説し出して、突然険悪になってびっくりしたことがあります。これは性犯罪に限らず、ブラック労働を強いる企業を批判する人でも、喫煙の害悪を訴える人でも、差別反対を訴える人でも(もちろんすべての人ではありませんが、何割かの人が)示したリアクションでした。
中には「守る人の頭がおかしい」と言ってのけた人までいました。理路整然とした語り口に定評があり、企業の労働問題に鋭く切り込むことで、同じ企業に勤める多くの労働者の支えになっていたような方のセリフです。
日本は育児に冷たい、誰もわかってくれない、(子供のいない人は)“もっと想像力を持って欲しい”と誰彼構わず常々言っていたイクメンを自負して止まないパパに、ある夫婦が意を決して不妊を打ち明けた席に立ち会ったことがあります。リアクションは「そんなことわからない!」「なぜ黙っていたのか!」「もっと早く言ってくれれば傷つけずに済んだのに!」と大変怒って、最終的にそのまま疎遠になったそうです。
かく言う私も、喫煙者(ハタチそこそこまでは路上の喫煙所でも平気で吸っていました。ある時、いやこれ外に煙流れてるからダメじゃない?と思って屋外喫煙所はやめました。20代中盤からは喫煙可能が分かりやすく示された店舗のみで吸う時期を経て、「飲食店で喫煙ができるのは非喫煙者の食べる権利を侵害している!」という層と向き合うのが面倒になって消極的に喫煙可能な店舗でも口にしなくなり、最終的に窓を閉め切った自室だけで、喫煙者しか存在しないタイミングでのみ吸うようになった喫煙遍歴です)でしたから「タバコの煙によって体調不良が出る」「喫煙者がいるせいで好きなものが食べられない」という人から叱責を受けたことが何度もあります。やはり反発する気持ちは湧きました。
そしてその、「タバコの煙によって体調不良が出る」という人もまた、ベランダで愛猫の毛のついた寝具を叩いていた際、猫アレルギーを持つ近隣住民から遠慮して欲しいという要請を受け、「猫を飼うなと言うのか!」と逆上していました。
みんな自分の心は守りたいです。それは分かります。誰かを迫害したいわけではないけど、自分の楽しいや気楽を死守しようとして無意識に強固な姿勢を取ってしまい、引っ込みがつかなくなったり、対立しているうちに意地が強化されたり、そういうのは普通にあると思います。
性犯罪の分野において社会的に正しい言説を理路整然と唱えられる人でさえ、自分が犯したバツの悪い部分を防御しようと「いかにスピード違反が正しいか」を本気で語り出すぐらいですから。タバコの煙による健康被害で苦しんだ人が、猫アレルギーの発作で死ぬところだったという苦情に対して「ペットを飼う自由を侵害するのか」と表明するくらいですから。労働問題で人を守ろうとし、パワハラに異を唱えた人が、「法定速度を守る人の頭がおかしい」と熱弁するのですから。
感情というのは取り扱いが難しいということを痛感させられます。

少し逸れてしまったので、“Not all men”の本論に戻しましょう。
(本当にその属性すべてのことを指して言っている人も居るでしょうけど、)大抵の場合、より簡便に作文をしているだけ、主語や目的格をザックリ話しているだけ、だったりします。
そもそも大抵の人は「みんながみんなそうじゃない」を理解した上で喋っている(ことが話を深く聞いていけば割り出せる)ので、わざわざそれを特筆しないのでしょう。
「空、晴れてるね」と言う時に、「自分と関係のある天気の話をしているのだな」と言っていることは多くの人が理解できるはずです。たとえ、「私が見上げてる空」とか「何区から見渡せる範囲の空」とか区切らなくても、「空」だけで。
「空」が世界中のすべての空を差す可能性があるにもかかわらず、通常の会話に於いて、「お前は今、世界中の空が晴天だと言い切ったな!」と食ってかかる人はなかなか居ません。
しかしこの「空、晴れてるね」に対して「世界中のすべての空が晴天じゃないです」と返事をするのが、“Not all men”の精神です。
果ては、「空、晴れてるね」に対して「なぜ世界中の空が晴天だと言い張ったんだ!」「すべての空が晴天だという根拠はなんだ!」「黙殺された雨の立場にもなってみろ!」「空のことを気にするのに地面のことは無視か!昨日は地震があったのに!」「雷に触れないくせに空の話をしていて何もわかってない」「今問題なのは空よりも海」「もっと晴れた空もあるのにこの程度を晴天と呼ぶなんて」という反論が湧いて出たりします。

そして、性犯罪やジェンダー格差の文脈において、本当に頻繁にこの“Not all men”は多用されるのです。
被害者の訴えよりも、大きな声で、「俺は違うぞ!」を伝えることを優先されてしまう場面が、非常に多いのです。
そういう風潮が健在なうちは、仮にこの漫画を男性主人公でやったとして、それについて、「これは性犯罪を肯定し加害者の罪を軽くする漫画になってしまうのではないか」という批判が来た時、著者としてはここで「Not all men!うちの主人公は違います!」を言うハメになるかもしれないし、男性読者の中には、同じ男性である主人公が責められていることに共感して、やはり「Not all men!」を言いたくなってしまう人も現れるかもしれません。そうすると、性犯罪被害に苦しんだ人が、再び苦しむキッカケが増えてしまうかもしれません。実在事件や現実社会のために戦うならまだしも(…全然良くないですが)、架空の漫画から生じた“Not all men”のために精神を擦り減らすというのはあんまりだな…と思いました。
性犯罪者が重ねた罪の数々のせいで、「男性が発情している様子が性犯罪のイメージにあまりにも直結しやすい」というリスクを負わされてしまっているため、議論が増えてしまいそうな設定は避けたい。そうすると、男性を女性と同じウェイトで〈突発性発情症候群〉の患者として登場させることはできませんでした。

註*所謂「痴漢」と呼ばれる性犯罪は必ずしも性欲だけが原因で行われているわけではない、ということが明らかになっていますが、ここでは、性衝動が原因となって犯行に及ぶタイプの加害者についてのみ言及しました。
参考 「男が痴漢になる理由」なぜ女性も知っておくべきなのか。満員電車でくり返される性暴力|過半数が「痴漢の行為中に勃起していない」 突き動かしているのは性欲だけではない。斉藤章佳(精神保健福祉士・社会福祉士)|取材・文 阿部花恵|ハフポスト

こうしたことを手放しで安心してコメディにできる日が来るとしたら、世の中から性犯罪もなくなり(伴って冤罪もなくなり)、誰しもがセカンドレイプ的な言説を支持しなくなり、「性犯罪は絶対に加害者が悪い」と言って何の問題もない、という“夢のような普通の世界”が来た時だと思います。(殺人はいけないという前提の上で娯楽として放映されている)人を斬って斬って斬って斬りまくる時代劇や、(殺人はいけないという前提の上で娯楽として放映されている)2時間サスペンスや刑事ドラマのように。

余談ですが、「そもそも所構わず発情することが理性的ではない」という言説も存在します。これが仮に「自発的かつ積極的に、しかも所構わず、性的なことばかり考えて愉しみ、その都度身体的な反応が出てしまうので、その上で、反応が出たら人知れず処理している」ということであれば(催すことを知っていながら積極的に考えることを自制しない時点で)、「理性的ではない」と分類して差し支えないと思います。マシなのは「処理が人知れず」というところだけですが、これは評価点ではなく、常識的にそうすべき点です。
ただし、「不意に訪れた外的要因に対して反射的に体が反応してしまったので速やかに一人で人目のない場所を探し、器物を汚損することなく適切に処理した」ということであれば、これは理性的であると考えます。
我々の祖先が猿から人間になって久しい今なお「性欲は男性の本能なので抑えられない」という言説も散見されますが、“それは本能だから仕方ないですね”の範囲は、男女問わず、まさにこの「意図せず、不意に、反射的に体が反応してしまう事態が起きた、(その上で、その場に完全な合意をもって一緒に発散してくれる相手がいない場合、ちり紙やナプキンなど最低限の消耗品以外の器物や他者の私物を汚損することなく、処置は適切に一人で合法的な場所で行った)」というところまででしょう。
頭ごなしに「どんな状況だとしても絶対に発情するな」は度が過ぎますし、無茶です。
そして「発情したからと言って自分を優先して所構わず発散するな」は良識として当然です。

…と、社会との関わりについての視座でばかりお話ししましたが、男性の場合、女性と異なり「外見的に発情が分かる」「発情すると露骨に何か目立つ」「発散すると露骨に何か出る」という身体的特徴の差分があるので、「そういうのが〈突発性発情症候群〉のコメディとしてはちょっと扱いにくいなー」という超シンプルな理由ももちろんありました。
女性の体だと外からは分かりませんが、男性だと屹立してしまう部分がありますから、それを周りに(不可抗力的に見られたのではなく)見せつけてしまった(と認識可能な)シーンが出現した時点で、コメディではなくハラスメントが成立してしまう場合もありますし、絵面として積極的に描きたいかというとそういうこともないですし、「耐えた結果、周りにはまったくバレなかったが、ハラハラした」というオチを作りにくいので。

こうした理由で、「実在する性犯罪事件を想起させず、性犯罪を肯定するような絵面にならない女性たち」が、本作の主人公枠のキャラクターとして、また、〈突発性発情症候群〉の患者キャラクターとして起用されました。だから、著者に「女性の発情シーンだけを消費したかった」という意図があったわけではありませんし、「掲載誌が男性誌だから女が欲情しているところをどんどん見せていかないと!」みたいな忖度があったわけでもありません。
社会規範や社会情勢、シーン作りの問題、いろいろ加味して、結果こうなった、というだけです。
 

掲載誌の誌風と「描かされたんでしょ?」という誤解
 
この『超みだれ』シリーズは、「ほぼ女性読者が居ない(と言い切っても差し支えない)」ほど男性向けの雑誌・週刊漫画ゴラクの本誌と増刊に掲載されました。
犬が凶暴なクマから誇りと命を懸けて山を取り返す『銀牙 -流れ星 銀-』の続編『銀牙伝説ウィード』『オリオン』や、食の巨匠・土山しげる先生の大食い漫画なども同じ雑誌で、何より誤解されたくないのは、個人的には大好きな雑誌ということです。

必ずしも「ジェンダー観は古いおじさん向けの雑誌」という(ゴラクを紹介する際に気軽に使われるような)説明文から想像できる表現が溢れかえっているわけではないのですが、ただ、「傾向として」という切り取り方をして語ると、ジェンダー的なパワーバランスや性の扱いについては、現実の場所に例えるなら、キャバクラやナイトクラブ、クラブのようなスナック、風俗店のような場所の性質にとても近い精神性を持つキャラクターが比較的多い文化圏だとは思います。(当時は圧倒的に。あれから10年経って、最近は当時と比べればフラットな世界観の作風が増えたと思いますが。)

登場する女心も、実在する女性の心ではなく、「昭和のおじさんが気持ちよくなる作風」と言われそうな歌謡曲で歌われやすい女心(テレサ・テンさんが歌唱を担当した曲の詞的とでも言えばいいのか…、「放蕩は男の勲章だからいいのよ」と女の口に歌わせるような…。)が、どちらかと言えば正解とされている世界観でした。SNSをやっていらっしゃる(この雑誌で過去にお仕事をしていた)ご年配の作家さんが、現代的なジェンダーや家事・結婚生活の話をする女性に「男のダメなところを分かった上で手のひらで転がすのがいい女」という論旨のことを説いている風景も度々お見掛けしたものです。殊に10年前ともなると、そういう精神性のまま自然体で居ても居心地の悪さを感じない誌風だったはずです。

スキャンダル
テレサ・テン

愛人
テレサ・テン

「ダメ男が何をしても許す女」「ワルくて強引な男こそモテる」「正義のための暴力」「暴力の前にひれ伏す正義」というファンタジー自体は、そのファンタジーを好む人の周囲に暮らす人たちの現実の生活に影響がない限り、私は特に問題視する気はありません。
なにしろ私がそういうの好きなので。ヤクザ映画とかで、ダメで悪い男の人にずるずるついていって最終的に一緒に堕ちるところまで堕ちてしまう女性とか、憐憫の奥に憧れも感じながら観ていられます。なりたいとは思わないし、身近にそういう人が居たら普通に困るけど。
フィクション趣味としてはそんな趣味ですから、社会規範的な文脈で気になる箇所は多々ありつつ、マンガそのもののパワーや作品の面白さ、発想の豊かさに於いてこの雑誌の大ファンだったりはします。(ついでに言うと、先ほどネガティブな例として挙げましたが、私はテレサ・テンさんの大ファンです。だから超超超超有名な曲以外も網羅しているわけで…。)

たとえば、ある漫画では「おてんばが過ぎる不良娘をしつけ直す」というシーケンスで、主人公のヤクザがその娘を、レイプでは?と思うようなシチュエーションで犯します。たしか、その際のセリフが「折檻マン!」だったと思うんですが、私はその「折檻マン」という言葉のセンスが面白すぎて爆笑したりはできます。
…できるんですけど、それはその感性(おしおきがてらレイプする)が漫画の中から絶対出てこないものだという保証があって、創作上のヤクザの行動として、絶対的な二次元と三次元の線を引かなければ(引かれていることにして読まなければ)、笑っていられません。私がこのフレーズで笑っていられると打ち明けられる相手も、実生活においては「性犯罪は絶対悪」という前提が成立している人だけでした。
「悪い部分がある生意気な小娘なら強姦されてもやむなし」「強姦はよくないけど、されるほうにも原因がある」「男は強引なほうがいかなる場合もいい」という発想が僅かでも存在する人が話し相手の時には絶対に笑えません。「おしおき強姦は現実でも笑ってもらえる発想なんだ!これで笑える女性がいるんだ!」的な期待を、知性や理性と距離を置いている人に持たせるわけにはいかないからです。
虎が描かれた屏風を部屋に置いて、二次元の虎を「強そう!何にでも勝てそう!こっちの理屈通じなさそう!」と言って笑っているのはいいですが、虎を部屋に飼ったり、ましてや虎を部屋に放たれたり、虎に食い殺される人を見て喜ぶ人に娯楽的に消費されたくはない、ということです。
屏風の虎が屏風の虎である限りは、仮に屏風の中でどんなことをしていても構わないのですが、虎を屏風から出してみたがる人の前では、娯楽が娯楽ではなくなってしまうので。

そんなわけで、個々人の捉え方はいろいろあるものの、誌風としてはカナリ寛容(いろんな意味で)だし、当時、ガチンコ系ヒューマンドラマでしか需要がなかった私を「中村さん、コメディも描けるはずですよ」と起用するような懐もあって、個人的にはファンだし、漫画家としての恩義もあるし、抑圧や束縛もない上に、労働環境の交渉には真面目に応じてくれるという超ホワイト対応までついていて、セクシャリティーに関する差別も受けない超優良編集部なので、基本姿勢としては超応援しているのですが、中高年男性向け雑誌の特性は当然備えているなあ…というのが客観的に見た正直な感想です。

こういうエロコメディを描いたりすると「男性編集に強要されて描いたの?かわいそうに…」的な同情を受けることもありますが、そういうわけではありません。本誌における私の担当編集は女性です。三十路を踏み越えた私が当時の私の担当さんを振り返ると「まだ20代の真面目な若手編集だなー」というスケールで見えます。礼儀正しくて、人の話を分け隔てなくきちんと聞いて、きちんと適応する、業務能力に長けた方ですから、組織的に良いものを追求して、真面目に働いていたのだと思います。仮に私が“強要されて描いた”のだとすれば、相手がおじさんだろうがお姉さんだろうがお嬢さんだろうが不服ですが、私たちは“自分たちの居るフィールド”で「面白い」とされるものを積極的に作ろうとした。それだけだったと思います。
お互いいろんなアイデアを出し合って、ネームを挟んで何時間も対話を重ねて、そういう真剣な日々が面白い漫画を作ると信じて、一所懸命取り組んでいました。
「“はしたない願望”に翻弄される女・欲求に突き動かされる女」として消費される可能性があるとしても、それで笑ってくれて楽しい暇潰しの時間を送ってくれる読者がいるなら、それは作品の成功だと思いましたし、完全な男性社会で、編集さんも作家さんもほとんど男性ばっかりという環境だったので、私には(もしかしたら担当さんも同じ気持ちで「私たちには」だったかもしれないし、或いはやっぱり「私には」だけかもしれない。とにかく、私には、)「この男性社会で、男性の先生たちが描くエロい娯楽と張り合うものを作らなきゃ」という使命感や目標のようなものもあったかもしれません。無意識下のことを想像しているので厳密に当時の私の胸中を知ることは私にすらできませんが、「ゴラク編集部で出世したい!」「ゴラクからヒット作を出して貢献したい!」という意識があったことだけは確かです。(というかこの意識自体は今もあります。やっぱり、作家第一で頑張ってくれる編集さんがいる編集部はとにかく働きやすいので、こちらも健やかに働かせてもらうばかりじゃなくて、ちゃんと数字で貢献したい、みたいな夢はやっぱりいつまでもあります。)
その環境下で、社会にどんなパワーバランスがあるか俯瞰する目と規範意識のもとで精査する目を持ち得なかったハタチそこそこの漫画家と、自らの所属する媒体での職務に忠実な20いくつの編集者、“20代の女の子”だった2人が色んな兼ね合いの中で作った企画だった、と思うと、今の自分としては、「これ(修正前のもの)が仕上がったこと」自体を問う気にはなれません。
若いから仕方なかった、というのではなく、年齢・性別・環境・発想・忖度・需要・供給・戦略・誌風・作風・時流・流行、いろんなごっちゃごちゃが加味された「これが仕上がったこと自体に不思議はない」という気持ちです。

本来、〈突発性発情症候群〉という設定は、「所構わず発情した上にそれを表に出すわけがないはずの女性」が、「発情した上にジタバタドタバタする」という異常な状況を呼び起こすための舞台装置でした。
そういう理由でもなければ、女性が所構わず発情した上に、それを表出しているなんて、〈突発性発情症候群〉という設定以上にリアリティがないからです。
そういう理由で作った設定の副産物として取れたバランスが、女性が「いつでも淫乱」になるんだけど「本来は清楚な人格である」というのを「病気だから」のおかげで完璧に担保して、女性自体は発情症候群の症状に悩んでいるから決して開き直ってヤりまくったりはしないから「ビッチじゃないけどいつでもエロい」が両立する。…です。
こういう舞台装置の副産物で色んな都合が整ってしまっているものだから、余計に「描かされたんでしょ?」と思われやすいのかもしれませんが(…ゴラクさんは誌風として「描かせそう」という誤解を受けがちですし、実際私もカナリ「ゴラクでエロいの描かされてたね」と言われてしまうのですが)描かされた漫画ではないんです。
担当さんが出してくれたアイデアもありましたが、それも指示ではなくて、アイデアであって、私が積極的に取り入れました。私が描きたくて、挑戦したくて描いた漫画なのです。
“屏風から出たがる虎”が居る以上、虎に出てこられてしまう三次元社会としては芳しくないことですが、“二次元世界で屏風の虎を強化する”という行為自体は、漫画家として絶対的にポジティブな行為なので、結果はどうあれ、それ自体は私の意志と意思でやっていたことです。
 

愉しんでしまった主人公
 
冒頭で私は、「所構わず発情する」というのは、文字通り、所構わず発情しかしません、と述べました。社会的に許されるのは、「所構わず発情するが、発情以上はしない」です。

しかし本作は雑誌掲載時に、その最低限守るべき〈アウト〉のラインを、ザツな笑いのためにところどころであっさり越えてしまいます。雑誌掲載時の本作で、シリーズを通して最も害悪だったシーンです。
シリーズ1作目である『超みだれ髪』のオチは、発情し、快感を知り、“目覚めてしまった”主人公が、性欲をコントロールする服薬をやめて、理性を保つ努力もやめる、というものでした。

雑誌掲載時(『超みだれ髪』中村珍)
中村珍「超みだれ髪」より(初出:週刊漫画ゴラク増刊9/25号 ゴラクカーニバル!!・2008年8月18日発売)

面白おかしく言えば「新しい扉を開けちゃいました」という話なのですが、これは主人公が性欲に敗北し、同級生たちを性的な眼差しで消費することを選択したにほかならない描写でした。この悪さに気付いてすぐ、担当編集さんに本編からのこのページの削除を申し出ました。現在刊行されている電子書籍・電子記事等にこのページは存在しませんが、このページを『超みだれ髪』の最後のページにただ足しただけのものが、雑誌掲載時のオチの姿です。

これについては当時その危うさにまったく気付いておらず、「主人公が結局マジメでいるのをやめちゃう面白いラストを思いついた」くらいの軽い気持ちでした。10年近く経って再編するにあたり読み返して、背筋が凍るほどゾッとしました。よく私はこれを描いて社会的に許されてきたな、と、恐ろしかったです。思考が至らず無知であるということは、これほど恐ろしく、これほど世界が違って見えるのかと思いました。

その間には、自分の彼女が性犯罪の被害に遭う(拙著『レズと七人の彼女たち 』シリーズの中で言及される予定です)とか、自分の妻となった人が性犯罪の被害を告白してくれた(拙著『お母さん二人いてもいいかな!? 』で言及されます )、など、私の身近な他者が“語る痛み”を引き受けてくれたから気付けたのですが…。
私自身はどちらかと言えば性犯罪被害を「仕方のないこと」と受け容れるメンタリティだったため、自力だけで気付けたかどうかは正直わかりません。
自分の身に起きたことを語ってくれる人は、勇気があるだけではなく、「語ればきっと聞く耳をもってくれるはず」という信頼を、語りかけた相手に対して、捨てずにいるのだということを知りました。「相手が間違っているから教えてやろう」という動機だけで語るには、リスクもダメージも大きすぎます。まだ世間のあたたかさや、人の良心を諦めていないのだと思いますし、本人たちもそう言っていました。
私は年を重ねるうち、話した人の数が増えれば増えるほど「どうせ言っても分かってもらえないだろう」「理解してくれそうにないのだから話しても無駄だ」と諦めることが増えたので、気を持ち直したいです…。

そういうわけで、10年経ってまるで別世界に立っています。
自身の無知を晒すのは恥ずかしくてたまらないことですが、本当に気付いてなかった人間が、10年経ったら気づくようになったというのを、様々な意味で記しておきたいと思います。10年前の段階で社会的に正しい指摘を受けていたら、もしかすると(性的搾取のイシューとして理解できるできないの問題ではなく、当時は今よりもっと野心に燃えた若手作家でしたから、私のキャリアを邪魔しないで欲しいという意味で「表現の自由を邪魔するな」という)反発を覚えた可能性があります。
大きな川を泳いで渡り、思想信条の向こう岸に行くのは大変なことですが、息苦しいのは川を泳いでいるからであって、向こう岸についてしまえば時代に見合った表現の範囲を探すという新たな楽しみ・遣り甲斐もある世界です。以前出演したイベントのレポート でも触れましたが、私は生活のためにジェンダー問題的にクリーンではない仕事を今も(他にも色々)引き受けてしまうことがあるので、まだ「かつての対岸に移住できた」とは言い切れませんが、景色を見る限り、「かつて私が居た岸に有って、今移住しようとしている岸に無いのは、〈表現の自由〉じゃなくて〈表現無法地帯〉だったのかも?」という認識になりました。
参考 メルセデス・ベンツ コネクション×POLA TALKER’S TABLE:人と人が「一緒に生きる」ということ出演イベントのレポート
 

男性に対するセクハラ的な描写
 
また、男性の身体的特徴に関する、ハラスメントと取れる描写が存在するタイトルもあります。
シリーズ3作目にあたる『超みだれ茸』では、主人公の女性が(想像していた大きさと違ったことを)「松茸、う〜ん、シメジかな。私の口には合ったけど。」と表現しています。

口に合うのはシメジだった(中村珍|超みだれ茸より)
中村珍「超みだれ茸」より(初出:週刊漫画ゴラク 2011年2月18日号・2011年2月4日発売)

十分失敬な物言いですが、これでも電子化の際にマイルドにした表現で、雑誌掲載時は「小っさいシメジ」と冷たく言い切るだけで終わっていました。

制作当初は、『理性的な男性×空回りした主人公の女性』という設定上(作中に登場しない、制作現場側のキャラ設定)の関係性も踏まえて「しめじ(松茸より小さい)」と、女性主人公が言い放つ表現を選びました。
「この状況下で平常状態であった」「期待してすごく大きくなったりはしなかった」という男性と、余裕がなくて思いやりも欠いた特定の人を敬愛して向き合った経験のない主人公」)という関係性です。

この彼氏は、彼女が完全にスイッチオン状態になって積極的にちょっかいを出してきても、まだスイッチを入れずにちゃんとしている。おかしなことを想像していない。かたや彼女(主人公)は男性とお付合いした経験はなく、何から何まで初めてです。実体験がなさすぎるからメディアからしか情報は入ってきていないわ、「いろんなサイズがある」とは文字で読んだり友達の話を聞いたりして知っているものの「果してどこまで個人差があるのか」も経験則としては分からず、参考資料と言えば誇張して描かれたマンガや浮世絵ぐらい。
でも、好きな人との行為というロマンチックな夢は膨らんでいて、体験がないから「大きい方が気持ち良いらしい」という期待も抱いている。大好きな人の元気な状態(松茸的な…)と、二人の初めての夜を妄想しすぎた結果「あれ?(マンガで見たのと違う、雑誌で読んだことあるのと違う、お酒の席でサイズ自慢合戦していた男性たちの言い分から割り出した平均値と違う)」となってしまう。
経験の伴わないしょうもないメディアからの知識が誠実性の邪魔をする。
…そういう、(男女問わず、メディアに踊らされて正しい知識が身につかなかった結果、初めてのベッドで相手の体に批評的になってしまう、というのは周りでもよく見聞きしますから)ビデオだけで経験豊富・ネット記事だけでテクニシャンになったつもりの経験の浅い男の子の逆版、「経験0・信憑性のない知識100」みたいな女の子を想定していたのですが、とは言え、設定に関する説明もなかったし、私のこの描き方じゃ、作中では絶対なんの設定も伝わらないな、と反省しました。

それから、胸のサイズや全身のスタイル、男性への献身レベル、夜の営みの技術、顔立ち、あらゆるものを査定されて当たり前の世界で暮らしてきたので、「たまには男性のほうをこっちが査定しよう」という、仕返しのような気持ちも多少ありました。多分。あった気がします。
フィクションのビデオなのに、「女はこういうのがいいんだろ」っていう一方的な方法論が横行していたり、「体重45kg超えたらデブじゃん」とか、どう見てもHカップくらいある絵に「胸は可もなく不可もないCカップ」とか書いてあって、その上で「Cカップ以下はありえない」みたいなことを言われたり。そういう経験不足からくるのか思慮不足からくるのかよくわからない妄想上のフツウへの当てつけで「どう?男性も経験不足の女から、全然気にする必要がないもののサイズについて妄想をソースにあれこれ言われたら嫌じゃない?」みたいな不服もあって、いつも私たちがされていることを逆に描いたような気もします。今となっては当時の真意(描いている最中に頭の中や胸の中を瞬間的に駆け抜けていく気持ちの確度)は分かりませんが、多分、そういうのもあったかな、と思います。

「この状況下で平常状態であった」という理性的な男性キャラに、こんな謗りを受ける役割を与えてしまったことは、作中の彼にも本当に申し訳なく思いますが…。どうしてもこの件(相手の体に批評的になること)についての風刺をしたいのであれば、そのための屋台骨をしっかり作った上で、体を批評されて傷ついてきたすべての性別の人に配慮し、事例を考察し、準備期間をしっかり取って挑むべきでした。
 

正当な“愉しみ”は奪いたくない
 
一番無難に手放しで(好き嫌い・品格ハードルの要素だけクリアすれば)誰が傷つくでもなく楽しめる要素だけ残ったのは、『超みだれ筆』のシャーペンとシャー芯がオラオラアンアンまぐわうパートかな…と思います。

攻めのシャー芯(中村珍|超みだれ筆より)
芯が出ちゃう(中村珍|超みだれ筆より)
中村珍「超みだれ筆」より(初出:週刊漫画ゴラク増刊11/28号 ゴラクカーニバル!!No.2 ・2008年10月20日発売)

それでも、筆ペンから強引にインクを絞るシーンは精神的には擬人化しているわけだからどうなんだろう、とは思っていて、でも筆ペンだし、しかも、人格のある筆ペンではなくて、主人公の想像上のセリフ(台所でホットドッグを作るときに「俺のソーセージを入れてやるよ」みたいな下品な独り言を言うのと同じ)なので、まあいいのか?と思ったり、でも、強引な行為を想像しているのはNGでは?と思ったり、いや、ただ、この人は「人間とか、生身の存在が相手の時は絶対にそういう強引な行為をしない」という人物設定を最初に作ってあるから(作中でそれを示すシーンは出てこないけど)、やっぱり何も問題ないか。とか、そのあたりは正直もう、考えすぎてよくわからなくなってしまいました。

ただ、(表現の自由や個人の権利を振り翳して「なんでもかんでも性的に消費していい」ということではなく、)良識下の性欲について「闇に葬り去ることはない」という意味では、作中に登場する彼女たちの欲情のすべてを肯定しています。本来、女性の発情も男性の発情と同じくらい自然に語られて問題ないはずなので。
他者を巻き込んで、巻き込むべきでない相手に矛先を向けて、誰かを抑圧して性的なことを愉しむのはよくないことですが、「女性が発情する姿は下品だからよくない」とか、「女の性欲って萎える」みたいな、品格の問題にスライドさせた批判は頂けないな、と思います。「女性には“清潔”であってほしい」みたいな。そういう批判の俎上に乗るのは嫌だな、って。(やたら発露をしない限り、性欲なんて好意を持つもの同士が密室的な環境下でコッソリ共有する秘密なのだから、正しく運用すれば不潔になり得ないんだし。)

作中の妄想は、〈著者が男性誌に迎合して設定した性質〉だけでなく〈女性であるキャラクターが好んで想像したであろう部分〉も含まれており、その、本人が好きこのんで妄想した(であろう)部分は、その妄想内容の開陳に犯罪性や差別性を肯定する要素がない限り、否定されるべきでないと思います。厳密に線を引けるものではありませんが、つまり、「性的なことを妄想して愉しむ女性が実在するとしたらそれは責められたり笑われたり不潔と揶揄されるべきではない」ということです。
注意すべきは、「キャラクターを介して、性的なことを自由自在に肯定的に表現した上にそれを何千何万の人にたやすく届ける力を持っている」著者と出版者のほうであって。
 

ぼんやり用意していた最終回
 
もし、このシリーズを描いていた当時、東北地方太平洋沖地震が来なくて、東日本大震災で被害を受けなかったら、そのまま連載的に描き続けていた場合のラストを、「突発性発情症候群を克服」というものにしたかったです。ぼんやりとしか考えていなかったのですが、〈突発性発情症候群〉は、性的なことをあまりにも抑圧されすぎた人にだけ発症することが分かって、過剰な「性的なことは汚いもの」「女性が持ってはいけない感情」みたいな抑圧によって自分の中でそういう認識が増幅するうちにアレルギーみたいに性的な連想ができるものが外から入ってくると、くしゃみや涙みたいに発情っていう症状が出ちゃう、みたいな。
これはべつに、「抑圧の解放=奔放になってヤりまくる」という解決策ではなくて、むしろその逆です。正確な知識を身につけて、「性欲があるのは悪い事ではないよ」「自分から湧いてくるそういう心身の反応を怖がったり汚いと思って拒絶しなくていいんだよ」と知っていくことで、変に爆発せずに、自分で選んで、大事な人とだけ関係していくことができるようになる。
その布石が、『超みだれ茸』(さっきの、「しめじ」呼ばわりした主人公の回)でした。彼女は彼のものを見て、最終的には体の関係を持ちます。作中には登場しないシーンですが、発情したり窘められたり、気持ちのタイミングが合った時は彼と関係したり、という繰り返しの末に、徐々に変化が訪れるのでは?という展開を考えていました。伏線的に、シリーズ3作目『超みだれ茸』の主人公・嶋 紗代は、シリーズ1作目『超みだれ髪』の主人公・嶋 紗英の実姉という設定になっています。同じ家庭で育った姉妹に発症しています。(同じ家庭で同じ性規範の中で育ち、義務教育下で同じ学校の性教育を受けている、という設定です。)
また、シリーズ4作目『超みだれ車』に登場するゴンドーくんは、シリーズ2作目『超みだれ筆』に登場するゴンドーさんの実弟ですが、彼は発症していません。一方姉は文房具相手にあんな状態なので深刻です。これは同じ家庭に育ちながら、男女で差がついた(男の子が性的なことに興味があるのは当たり前という認識で育児が行われた家庭の)例を想定していました。
井口課長とコンビニの川原さんにもそれぞれ設定があります。

必ずしも社会的に正しいわけではない漫画を描く上で、「仕事ですから」「生きていくために必要なので出版はしますよ」みたいな感覚は今もあります。正直、出版物1冊を思想信条や社会的正義のためだけに潰せるほど生活は潤っていないし、「普通に暮らせるけど、大きな資産はないから油断はできない」といったところです。だから出したし、でも、迷いとストレスのようなものは感じたままです。「だったら出版やめろよ」と言われたとしたら「困窮しろっていうのか!私の収入源だ!」という気持ちになるけれど、だからと言って「その収入源は絶対に誰の生きやすさも奪っていませんか?」については何も言い返せない。

結局、なんだかんだ「これも大事な収入源なので」を結論として電子出版に至ったわけですが…、どうしてもビジネス的にこのシリーズの原稿(収入源)を引き下げる決断ができないなら、そのうち、時間と予算と法務が許せば続刊として、このシリーズの主人公たちのその後と、〈突発性発情症候群〉がなんだったのかをしっかり固めて、コメディの向こう側にフェアな性教育とジェンダー差のない性愛の取り扱いがあるストーリーとして着地できたら…ということを考えています。
ただ(私は本来、シリアスなストーリーが本業な漫画家なので)、この『みだれシリーズ』とは全然関係ないところに、「次の代表作にするための、大本命のタイトルはこれ!」「そのあとの代表作にするこれに全力以上で投球する!」というプランが他作に対して常にあるので、それらを差し置いてすぐにできるかというと、正直、瞬発力だけで対応するのは体力的にも予算的にもかなり難しいと思いますが…。
コメディでしかなかった本作を、社会的意義も結果的には生じたものに昇華させるにはこれ以外ないと思うので、長い目で検討していきたいと思います。

次に、“女の品定め”を肯定しかねないエッセイ『正直者と萌えの湖』についてです。